矢島八郎のお墓を訪ねて、八幡霊園へ行きました。
中村茂先生からキリスト教墓地の東並びということを聞いていたので、案内板に「私有墓地」となっている所だと、すぐに分かりました。
行ってみると、「胡桃塚」に立っていたものであろう石柱が、ここに立っていました。
広い墓域に、墓石は二つだけです。
大きい方へ行ってみると、「矢嶋家之墓」とあるので、「あ、これか。」と思ったのですが・・・。
「徳音碑」という過去碑を見ると、矢島八郎の名前はなく、「矢島孫三郎 俳號天來庵天來」と刻まれています。
「隠居の思ひつ記」読者の方は、「ん?・・・天来庵?・・・矢島?」と思って頂けたんじゃないでしょうか。
はい、あの「竹の子餅」の天来庵・矢島孫三郎のお墓でした。
孫三郎は矢島八郎の親戚だとか、甥だとかいう話もありますが、孫三郎の家紋は「丸に並び矢」、八郎の家紋は「丸に三つ引き」ということで、私にはよく分かりません。
ただ、二人の間に強い信頼関係があったことは確かなようです。
「矢島八郎翁銅像建設記念」誌によると、銅像建設は孫三郎の発意により井上保三郎に諮ったものとあります。
その井上保三郎は、同誌の「まえがき」でこのように語っています。
慶応三年(1867)高崎羅漢町に生まれた矢島孫三郎は、若くして俳句の道に進み、自ら天来庵天来と号する宗匠として広く名を知られていたそうですが、恥ずかしながら知りませんでした。
天来は自らを「矢島八郎の腰巾着」と言って憚らず、市長・矢島八郎に私淑し、市会議員として東奔西走して八郎のために尽くしたということです。
それだけ、矢島八郎という人物に心酔していたのでしょう。
二人の信頼の強さを語る逸話が、「矢島八郎翁銅像建設記念」誌に載っています。
天来の写真を見ると、着ている羽織の紋は「丸に三つ引き」です。
おそらく、矢島八郎の形見の羽織を着て写真に残したものでしょう。
俳句の宗匠としては、「大正吟社」を設立し、大正二年(1913)に月刊雑誌「大正吟社月次句集」を創刊しています。
しかしその五年後、天来は五十一歳で失明しており、以降、「盲 天来」と自称しています。
従って、矢島八郎の臨終も、葬儀も、そして銅像設立も、天来は心の目でそれらを見、立ち会っていた訳です。
天来は、昭和九年(1934)信州姥捨山の長楽寺境内に、一基の句碑を建てます。
その二年後、天来は七十歳で矢島八郎のもとへ旅立ちました。
いま二人は、高崎の行く末について、どのような話を交わしているのでしょうか。
さて次回は、隣の矢島八郎のお墓についてです。
中村茂先生からキリスト教墓地の東並びということを聞いていたので、案内板に「私有墓地」となっている所だと、すぐに分かりました。
行ってみると、「胡桃塚」に立っていたものであろう石柱が、ここに立っていました。
広い墓域に、墓石は二つだけです。
大きい方へ行ってみると、「矢嶋家之墓」とあるので、「あ、これか。」と思ったのですが・・・。
「徳音碑」という過去碑を見ると、矢島八郎の名前はなく、「矢島孫三郎 俳號天來庵天來」と刻まれています。
「隠居の思ひつ記」読者の方は、「ん?・・・天来庵?・・・矢島?」と思って頂けたんじゃないでしょうか。
はい、あの「竹の子餅」の天来庵・矢島孫三郎のお墓でした。
孫三郎は矢島八郎の親戚だとか、甥だとかいう話もありますが、孫三郎の家紋は「丸に並び矢」、八郎の家紋は「丸に三つ引き」ということで、私にはよく分かりません。
ただ、二人の間に強い信頼関係があったことは確かなようです。
「矢島八郎翁銅像建設記念」誌によると、銅像建設は孫三郎の発意により井上保三郎に諮ったものとあります。
その井上保三郎は、同誌の「まえがき」でこのように語っています。
「 | これが編纂に就ては衆議の上、上毛郷土史會主の豐國覺堂君を煩はすことに致しました。 |
君を煩はす所以は、君は翁の在世中・永く翁に親炙し、翁の事蹟は細大となく承知して居らるゝからであります。 | |
而して更に念の爲め、其の相談對手としては翁に師事すること三十有餘年、翁の腰巾着を以て自ら任じてゐる矢島天來君を煩はしたのであります。」 |
慶応三年(1867)高崎羅漢町に生まれた矢島孫三郎は、若くして俳句の道に進み、自ら天来庵天来と号する宗匠として広く名を知られていたそうですが、恥ずかしながら知りませんでした。
天来は自らを「矢島八郎の腰巾着」と言って憚らず、市長・矢島八郎に私淑し、市会議員として東奔西走して八郎のために尽くしたということです。
それだけ、矢島八郎という人物に心酔していたのでしょう。
二人の信頼の強さを語る逸話が、「矢島八郎翁銅像建設記念」誌に載っています。
「 | (矢島翁は)生前病篤き日、多年翁に師事した矢島天來子を枕近く呼び、紋服一着を記念(かたみ)に與へ『お前は是非俺れの墓を守れよ』と遺言して瞑目した。 |
爾來天來子は其言を心に銘じ、(略)其墓石前には石燈籠を建設し、翁の墓地に隣りて自分も墓守の任務を全ふすべく、墓地を相して居るとの事で、その情誼の厚きは傳へて後世の美談とするに足るべく、銅像の建設を見たる上に此の忠良の墓守の現存することは、蓋し翁の遺徳の然らしむるものと思はれる。」 | |
天来の写真を見ると、着ている羽織の紋は「丸に三つ引き」です。
おそらく、矢島八郎の形見の羽織を着て写真に残したものでしょう。
俳句の宗匠としては、「大正吟社」を設立し、大正二年(1913)に月刊雑誌「大正吟社月次句集」を創刊しています。
しかしその五年後、天来は五十一歳で失明しており、以降、「盲 天来」と自称しています。
従って、矢島八郎の臨終も、葬儀も、そして銅像設立も、天来は心の目でそれらを見、立ち会っていた訳です。
天来は、昭和九年(1934)信州姥捨山の長楽寺境内に、一基の句碑を建てます。
「見えぬ我 眼にも明るし 山の月」 盲天来
その二年後、天来は七十歳で矢島八郎のもとへ旅立ちました。
いま二人は、高崎の行く末について、どのような話を交わしているのでしょうか。
さて次回は、隣の矢島八郎のお墓についてです。