2010年11月29日

鎌倉街道探訪記(9)

今日は、城南小学校正門前からのスタートです。

鎌倉街道探訪記(9)グンブロガー捨蚕さんの踏切シリーズ風の写真ですが、上信電鉄・城南小踏切を渡ります。
鎌倉街道探訪記(9)奥に見える青色の橋は、昭和六十一年(1986)完成の城南大橋です。

右手前にある石碑が、その城南大橋によって分断された鎌倉街道を、後世に伝えようと建てられた「鎌倉街道記念碑」です。
鎌倉街道探訪記(9)「鎌倉街道記念碑」から城南大橋の下を潜る人道橋が、その名も「鎌倉街道橋」です。

何となく、鎌倉時代へのタイムトンネルのようです。
鎌倉街道探訪記(9)橋の途中から左手に見えてくるお寺は、寛永十年(1633)開山の荘厳寺(しょうごんじ)です。

本堂の左手に見える玉垣で囲まれた大きな墓は、井上保三郎翁の眠る井上家の墓です。
鎌倉街道探訪記(9)右手に見えてくるのが、新後閑(しごか)町にありながら、通称「多中のこんぴらさま」と呼ばれる琴平神社です。
(多中=和田多中町)
鎌倉街道探訪記(9)
「多中のこんぴらさま」は、石段の両脇を天狗が守っているという珍しい神社です。

石段下にある看板には、文化年間(1804~1817)頃、高崎藩士・寺田宗有(むねあり)が、一昼夜讃岐から分霊を勧請したと伝わる、と書かれています。

飛行機のない時代に、四国まで一昼夜で往復したというんですから、これは確かに天狗のなせる技としか思えません。
「高崎漫歩」「高崎の散歩道」「高崎の名所と伝説」では、三昼夜となっています。

この寺田宗有という人、大変な兵法家だったようで、平常無敵流の剣術の他、居合、砲術、槍術、柔術すべて免許皆伝の腕前だったとか。

そんな凄い兵法家なのに、高崎藩は一刀流以外の流派の剣術師範を認めませんでした。
しかし藩としても、よい剣術師範が欲しかったのでしょう、藩主・松平輝和は51歳の宗有に中西派一刀流の再修業を命じ、宗有は56歳で免許皆伝となります。
宗有は、中西道場三羽烏の一人に挙げられ、かの有名な千葉周作にも組太刀を教えたといいます。

「多中のこんぴらさま」勧請の逸話以外にも、いろいろなエピソードをもつ人のようです。
こちらをご覧ください。→Wikipedia「寺田宗有」

鎌倉街道探訪記(9)天狗像の後ろに、洞穴があります。

中へ入ってみると、「和田稲荷大明神」と書かれた提灯に明かりが灯っていて、幻想的な雰囲気です。
鎌倉街道探訪記(9)赤坂ノ庄和田城を築いた、和田氏の一族がこの辺りに居住していたので、その屋敷稲荷だったのではないかという説があります。(「高崎漫歩」土屋喜英氏)
鎌倉街道探訪記(9)
境内の隅には、飯玉神社も祀られています。

新後閑という地名の由来は、和田氏の家臣・新後閑左京亮が居住していたことからだそうです。

その新後閑氏の祖先・倉賀野氏が祀る飯玉神を勧請したのが、この飯玉神社だということです。
初めは、現在琴平宮のある山上にあったといいますが、時代の流れでショバを明け渡すことになったようです。

鎌倉街道探訪記(9)祭神は倉賀野神社と同じ大国主神ということですが、失礼して中を覗くと、えびす様もいらっしゃいますし、金精様のようなのもいらっしゃいます。

これも、時代の流れというものでしょうか。

鎌倉街道探訪記(9)もうひとつ面白いお社があります。
昭和四十五年(1970)に建立されたらしい「天満宮」です。

面白いと思ったのは、神社額賽銭箱の奉納者です。
鎌倉街道探訪記(9)

賽銭箱大蔵大臣福田赳夫氏というのは、ぴったりです。
その時、中曽根康弘氏が文部大臣だったら、学問の神・天満宮にぴったりだったんでしょうが、あいにく防衛庁長官だったんですね。
ということで、肩書は拓殖大学総長という訳です。
考えましたねー。

見どころ満載の「多中のこんぴらさま」で引っかかり、まだ200mも歩いていません。
ま、今日はこのくらいにしときましょうか。

【今日の散歩道】



鎌倉街道探訪記(9)



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Posted by 迷道院高崎 at 07:38
Comments(8)鎌倉街道
この記事へのコメント
後閑と言う地名は群馬に多いですね。安中市にもみなかみ町にもありますね。
Posted by ふれあい街歩き  at 2010年11月29日 19:58
踏切マニアのステゴです。
上信電鉄にも踏切の看板があったんですね。

アッパレ!
Posted by 捨蚕捨蚕  at 2010年11月29日 20:04
>ふれあい街歩きさん

尾崎喜左雄博士の説では、村と村の間の使っていない土地「空閑」が訛って「ごかん」になったといいますが、どうなんでしょう?

倉賀野氏の三男が後閑氏を名乗っていたといいますが、群馬県各地に後閑という地名があることとの関係はどうなんでしょう?

いろいろ、面白いことがあるもんですねぇ(^_^)
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年11月29日 21:34
>捨蚕さん

京都からお戻りですか。

「アッパレ!」と誉めて頂いて、檀れいになった気分です。
ありがとうございます!
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年11月29日 21:41
>迷道院高崎様


後閑の語源説や、歴史を紹介して下さり、誠に有り難うございます。
地名は正に無形文化財ですね。奥が深いです。
Posted by ふれあい街歩き  at 2010年11月30日 01:09
>ふれあい街歩きさん

受け売りの話ばかりで、恐縮です(^^ゞ

本当に地名は大切に継承していかないといけませんね。
地名の由来は、郷土愛を育むきっかけになると思います。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年11月30日 08:25
井上家のお話やこんぴらさまを守る天狗やら、
中身が濃ーい、面白いお話がぎっしりですね。
後閑という地名についても、同じく興味がありましたので、いろいろ教えて頂けました^^。
Posted by 風子  at 2010年11月30日 22:46
>風子さん

興味ある話が多くて、なかなか先へ進めません(^^ゞ

知らなければ何でもない場所が、とても大切な場所に思えてきます。
風子さんの、板鼻、安中もそうですよね。

その土地の人ですら、だんだん忘れていってるようですから、知ったことは伝えていかないとですね(^^)
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年12月01日 09:41
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