今日は、城南小学校正門前からのスタートです。

「多中のこんぴらさま」は、石段の両脇を天狗が守っているという珍しい神社です。
石段下にある看板には、文化年間(1804~1817)頃、高崎藩士・寺田宗有(むねあり)が、一昼夜※で讃岐から分霊を勧請したと伝わる、と書かれています。
飛行機のない時代に、四国まで一昼夜で往復したというんですから、これは確かに天狗のなせる技としか思えません。
この寺田宗有という人、大変な兵法家だったようで、平常無敵流の剣術の他、居合、砲術、槍術、柔術すべて免許皆伝の腕前だったとか。
そんな凄い兵法家なのに、高崎藩は一刀流以外の流派の剣術師範を認めませんでした。
しかし藩としても、よい剣術師範が欲しかったのでしょう、藩主・松平輝和は51歳の宗有に中西派一刀流の再修業を命じ、宗有は56歳で免許皆伝となります。
宗有は、中西道場三羽烏の一人に挙げられ、かの有名な千葉周作にも組太刀を教えたといいます。
「多中のこんぴらさま」勧請の逸話以外にも、いろいろなエピソードをもつ人のようです。
天狗像の後ろに、洞穴があります。
中へ入ってみると、「和田稲荷大明神」と書かれた提灯に明かりが灯っていて、幻想的な雰囲気です。

赤坂ノ庄に和田城を築いた、和田氏の一族がこの辺りに居住していたので、その屋敷稲荷だったのではないかという説があります。(「高崎漫歩」土屋喜英氏)

境内の隅には、飯玉神社も祀られています。
新後閑という地名の由来は、和田氏の家臣・新後閑左京亮が居住していたことからだそうです。
その新後閑氏の祖先・倉賀野氏が祀る飯玉神を勧請したのが、この飯玉神社だということです。
初めは、現在琴平宮のある山上にあったといいますが、時代の流れでショバを明け渡すことになったようです。
祭神は倉賀野神社と同じ大国主神ということですが、失礼して中を覗くと、えびす様もいらっしゃいますし、金精様のようなのもいらっしゃいます。
これも、時代の流れというものでしょうか。
もうひとつ面白いお社があります。
昭和四十五年(1970)に建立されたらしい「天満宮」です。
面白いと思ったのは、神社額と賽銭箱の奉納者です。

賽銭箱が大蔵大臣の福田赳夫氏というのは、ぴったりです。
その時、中曽根康弘氏が文部大臣だったら、学問の神・天満宮にぴったりだったんでしょうが、あいにく防衛庁長官だったんですね。
ということで、肩書は拓殖大学総長という訳です。
考えましたねー。
見どころ満載の「多中のこんぴらさま」で引っかかり、まだ200mも歩いていません。
ま、今日はこのくらいにしときましょうか。

![]() | グンブロガー捨蚕さんの踏切シリーズ風の写真ですが、上信電鉄・城南小踏切を渡ります。 |
![]() | 奥に見える青色の橋は、昭和六十一年(1986)完成の城南大橋です。 右手前にある石碑が、その城南大橋によって分断された鎌倉街道を、後世に伝えようと建てられた「鎌倉街道記念碑」です。 |
![]() | 「鎌倉街道記念碑」から城南大橋の下を潜る人道橋が、その名も「鎌倉街道橋」です。 何となく、鎌倉時代へのタイムトンネルのようです。 |
![]() | 橋の途中から左手に見えてくるお寺は、寛永十年(1633)開山の荘厳寺(しょうごんじ)です。 本堂の左手に見える玉垣で囲まれた大きな墓は、井上保三郎翁の眠る井上家の墓です。 |
![]() | 右手に見えてくるのが、新後閑(しごか)町にありながら、通称「多中のこんぴらさま」と呼ばれる琴平神社です。 (多中=和田多中町) |

「多中のこんぴらさま」は、石段の両脇を天狗が守っているという珍しい神社です。
石段下にある看板には、文化年間(1804~1817)頃、高崎藩士・寺田宗有(むねあり)が、一昼夜※で讃岐から分霊を勧請したと伝わる、と書かれています。
飛行機のない時代に、四国まで一昼夜で往復したというんですから、これは確かに天狗のなせる技としか思えません。
※「高崎漫歩」「高崎の散歩道」「高崎の名所と伝説」では、三昼夜となっています。
この寺田宗有という人、大変な兵法家だったようで、平常無敵流の剣術の他、居合、砲術、槍術、柔術すべて免許皆伝の腕前だったとか。
そんな凄い兵法家なのに、高崎藩は一刀流以外の流派の剣術師範を認めませんでした。
しかし藩としても、よい剣術師範が欲しかったのでしょう、藩主・松平輝和は51歳の宗有に中西派一刀流の再修業を命じ、宗有は56歳で免許皆伝となります。
宗有は、中西道場三羽烏の一人に挙げられ、かの有名な千葉周作にも組太刀を教えたといいます。
「多中のこんぴらさま」勧請の逸話以外にも、いろいろなエピソードをもつ人のようです。
こちらをご覧ください。→Wikipedia「寺田宗有」

中へ入ってみると、「和田稲荷大明神」と書かれた提灯に明かりが灯っていて、幻想的な雰囲気です。

赤坂ノ庄に和田城を築いた、和田氏の一族がこの辺りに居住していたので、その屋敷稲荷だったのではないかという説があります。(「高崎漫歩」土屋喜英氏)

境内の隅には、飯玉神社も祀られています。
新後閑という地名の由来は、和田氏の家臣・新後閑左京亮が居住していたことからだそうです。
その新後閑氏の祖先・倉賀野氏が祀る飯玉神を勧請したのが、この飯玉神社だということです。
初めは、現在琴平宮のある山上にあったといいますが、時代の流れでショバを明け渡すことになったようです。

これも、時代の流れというものでしょうか。

昭和四十五年(1970)に建立されたらしい「天満宮」です。
面白いと思ったのは、神社額と賽銭箱の奉納者です。

賽銭箱が大蔵大臣の福田赳夫氏というのは、ぴったりです。
その時、中曽根康弘氏が文部大臣だったら、学問の神・天満宮にぴったりだったんでしょうが、あいにく防衛庁長官だったんですね。
ということで、肩書は拓殖大学総長という訳です。
考えましたねー。
見どころ満載の「多中のこんぴらさま」で引っかかり、まだ200mも歩いていません。
ま、今日はこのくらいにしときましょうか。
【今日の散歩道】
