2010年12月01日

鎌倉街道探訪記(10)

鎌倉街道探訪記(10)「多中のこんぴらさま」の境内から、立派な仁王門が見えます。

仁王門というのは、普通はお寺にあって、寺域を守るためのものです。

その仁王門が、こんぴらさまという神社にあるとは不思議です。

鎌倉街道探訪記(10)
ところが、門の反対側に回ると、ちゃんと右大臣(矢大臣)・左大臣がいます。
これは、神社の神域を守る随身門です。

仁王門随身門が背中合わせになっているという、珍しい門ですね。

鎌倉街道探訪記(10)門を抜けると、荘厳寺前に出ます。

山号は飯玉山とありますので、こんぴらさま境内にある「飯玉神社」と関係がありそうです。

土屋喜英氏著「高崎漫歩」には、荘厳寺は明治まで琴平神社の別当であったと書かれています。
新後閑氏が飯玉神社を勧請した時に、祈願所として開基したのが荘厳寺だということです。

そう考えると、先述の門がこんぴらさま側から見たら寺域を守る仁王門で、荘厳寺側から見たら神域を守る随身門となっているのも、納得がいきます。

鎌倉街道探訪記(10)荘厳寺の一角に、立派な地蔵堂が建っています。

このお地蔵様は、以前、城南小学校下の国道に面したところにあったものを、国道の改修時にここへ移転したのだそうです。

地蔵堂の傍らに、「地蔵菩薩建立縁起」と刻んだ石碑が建っています。

そこには、こう刻まれています。
抑々茲に厄除地蔵菩薩を建立さるの所以は この地にて遭難せる横死者各々の精霊並びに旧避病院跡にまつわる有無両縁の萬霊成佛供養のためなり」

ここに出てくる「避病院」というのは、伝染病患者の隔離病棟のことです。
明治十五年(1882)「高崎伝染病院」として設立され、昭和三年(1928)には「市立城南病院」と改められます。
しかし、人々の間では「避病院」という名で呼ばれていました。
当時の地図を見ると、その名の如く人々が近づかないような場所に置かれていたことが、よく分かります。
鎌倉街道探訪記(10)

昭和二十六年(1951)その「避病院」の跡地に、南小学校の分校として建てられたのが、現・城南小学校です。
「避病院」の西側には深い谷がありました。
学校建設にあたって、この谷にごみを捨てて埋め立て、その上に土盛りをして校庭にしたのでした。
これが、後に悲劇を生むこととなります。

碑文の続きを読んでみましょう。
偶々昭和三十四年四月二十八日夕 城南小学校々庭の西北隅の土砂崩潰により同校学童四名その下敷きとなり惨死す」

鎌倉街道探訪記(10)その日、子供たちは校庭で野球をしていましたが、落ちたボールを拾うために崖を下りたところ、もろい埋め土が崩れ、四人の命を奪ったのでした。
地蔵堂の中には、その時の写真が掲げられています。

このような悲劇が再発せぬようにとの願いから、広く市民に浄財を募って建立されたのが、このお地蔵様だということです。
取材中にもお参りをする人の姿を見かけましたが、今も多くの方がお参りするようで、堂内には供物や線香が置いてありました。

さて、今日もほとんど歩いていませんが、長くなりましたのでこの辺にしておきましょう。
(参考図書:「高崎漫歩」)


【今日の散歩道】




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Posted by 迷道院高崎 at 19:38
Comments(10)鎌倉街道
この記事へのコメント
へェー、仁王門と随神門が背中合わせなんて、見たことも聞いたこともありませんでしたが、珍しいものがあるんですね。おもしろい!

観音さまにお会いになれてよかったですね。鎌倉街道の知られざる歴史探訪に、きっと観音さまが力を貸してくださいますよ^^。
Posted by 風子  at 2010年12月01日 23:20
そうですかあ、お写真拝見して、あの国道から見える立派なお寺さん、「荘厳寺」真言宗でしたか。確かあのお寺さんの住職さんかなあ、昔アマチュア無線をしてた時、無線仲間としてお会いしてたような、記憶は定かではありませんが。まだ境内あたりにタワーがたっているんじゃないかなあ。あの頃は無線を通じて様々な職業や年代の人と知り合えておもしろかったなあ。今は携帯電話が普及して無線、全然はやりません。
Posted by 柏木沢の農家おじさん  at 2010年12月02日 06:25
>風子さん

多中のこんぴらさまは、いろんなものがあって結構時間がつぶせます(^_^)

記事では触れなかったんですが、立派な絵馬殿があって、そこに奉納されている数々の絵馬や献額も、なかなか興味深いものが多いです。

お近くにおいでの節は、ぜひお立ち寄りを。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年12月02日 08:25
>柏木沢の農家おじさん様

そうですかー、アマチュア無線を。
ハム、独特の世界ですよね。
ご住職とアイボールでしたか。


楽しいQSOありがとうございました(^_^)
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年12月02日 08:49
おやっ?迷道院様、アイボールなどと専門用語はたまたQ符号をお知りになってると言う事は以前、アマチュア無線やっておられたんですか?
小生、JK1のコールサイン持ちでした。資格は電話と電信級でして最盛期には88カ国くらいとQSOしました。実際、海外と縁が出来たのは無線を通じてだったんですよ。
でも家族を持ってからコールサイン流しちゃいました。子供が全部仕上がったらまた再開したいです。
Posted by 柏木沢の農家おじさん  at 2010年12月02日 22:14
>柏木沢の農家おじさん様

中学の時に入っていた技術クラブの先生が、JA1KYFさんでした。
学校の屋上にアンテナを張るのをお手伝いしたりして、先生が「CQ、CQ・・・」なんてやってるのを見て、憧れました。

でも貧乏な頃で、開局なんてできませんでしたから、もっぱら本を読んで想像の世界で楽しんでました。

CWも、イトー、ロジョーホコー、ハーモニカ・・・なんて、一所懸命覚えたりしました。

再開に向けて、頑張ってください!
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年12月03日 08:03
いよいよ
わが小学校区に入ってきましたね。
でも知らないことばかり。

金比羅様
昔は結婚式も挙げられました。
実は、妹がお世話になったのです。 
 
荘厳寺
義父が葬儀で世話になっています。
法事では住職さんから
いろいろ聞いていますが
地蔵堂のことは知りませんでした。

墓地の中央に
あの井上家の墓があるのを
最近知りました。
次回、その報告があるのかな?
Posted by いちじん  at 2010年12月03日 09:29
>いちじんさん

そうかー、いちじんさんの小学校区でしたか。
少し、懐かしんで頂けたでしょうか?

井上家のお墓、流石に大きいですよねー。
でも、次回は別のお話になります。

乞うご期待!
となるかどうか・・・(^_^)
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年12月03日 09:53
「高崎五万石騒動」の復刻版の
付録に
関口さんの文章がありますが
その中にこんな件がありました。

ー略ー
事件後弥蔵は入牢の刑に処せられた。
当時あまり入牢者が出て、
牢が間に合わず、
急遽、和田田中に牢が作られ、
そこへ弥蔵も入れられた。
後にこの牢の跡が避病院になった。
金比羅さまの裏手だったと記憶する。
ー略ー

避病院の場所は
牢だったらしいです。

この付録、コピーしましたから
お渡ししますよ。
Posted by いちじん  at 2010年12月20日 11:53
>いちじんさん

あー、避病院の前身は、そういうことだったんですかー。
いろいろ、因縁のある場所なんですね。

貴重な資料のコピーを頂戴できるとは、ありがたいことです。
またいつかお会いできたときにでも、頂戴いたします。
ありがとうございました!
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年12月20日 18:43
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