
仁王門というのは、普通はお寺にあって、寺域を守るためのものです。
その仁王門が、こんぴらさまという神社にあるとは不思議です。

ところが、門の反対側に回ると、ちゃんと右大臣(矢大臣)・左大臣がいます。
これは、神社の神域を守る随身門です。
仁王門と随身門が背中合わせになっているという、珍しい門ですね。

山号は飯玉山とありますので、こんぴらさま境内にある「飯玉神社」と関係がありそうです。
土屋喜英氏著「高崎漫歩」には、荘厳寺は明治まで琴平神社の別当であったと書かれています。
新後閑氏が飯玉神社を勧請した時に、祈願所として開基したのが荘厳寺だということです。
そう考えると、先述の門がこんぴらさま側から見たら寺域を守る仁王門で、荘厳寺側から見たら神域を守る随身門となっているのも、納得がいきます。

このお地蔵様は、以前、城南小学校下の国道に面したところにあったものを、国道の改修時にここへ移転したのだそうです。
地蔵堂の傍らに、「地蔵菩薩建立縁起」と刻んだ石碑が建っています。
そこには、こう刻まれています。
「 | 抑々茲に厄除地蔵菩薩を建立さるの所以は この地にて遭難せる横死者各々の精霊並びに旧避病院跡にまつわる有無両縁の萬霊成佛供養のためなり」 |
ここに出てくる「避病院」というのは、伝染病患者の隔離病棟のことです。
明治十五年(1882)「高崎伝染病院」として設立され、昭和三年(1928)には「市立城南病院」と改められます。
しかし、人々の間では「避病院」という名で呼ばれていました。
当時の地図を見ると、その名の如く人々が近づかないような場所に置かれていたことが、よく分かります。
昭和二十六年(1951)その「避病院」の跡地に、南小学校の分校として建てられたのが、現・城南小学校です。
「避病院」の西側には深い谷がありました。
学校建設にあたって、この谷にごみを捨てて埋め立て、その上に土盛りをして校庭にしたのでした。
これが、後に悲劇を生むこととなります。
碑文の続きを読んでみましょう。
「 | 偶々昭和三十四年四月二十八日夕 城南小学校々庭の西北隅の土砂崩潰により同校学童四名その下敷きとなり惨死す」 |

地蔵堂の中には、その時の写真が掲げられています。
このような悲劇が再発せぬようにとの願いから、広く市民に浄財を募って建立されたのが、このお地蔵様だということです。
取材中にもお参りをする人の姿を見かけましたが、今も多くの方がお参りするようで、堂内には供物や線香が置いてありました。
さて、今日もほとんど歩いていませんが、長くなりましたのでこの辺にしておきましょう。
(参考図書:「高崎漫歩」)
【今日の散歩道】
