井上工業(株)創業者・井上保三郎氏が別宅「観水園」において他界したのは、氏が建立した「高崎白衣観音」開眼の2年後、昭和13年であった。
その葬儀の花環・供物類は、八島町の居宅玄関前から門前は勿論、近隣の高崎営林署や高崎税務署前、南小学校正門および西側の通りまで並べられ、しまいには小学校校庭まで借用して飾られたと言われる。
葬儀は新後閑町(しごかまち)の荘厳寺(しょうごんじ)で行われたが、参列者の行列は居宅から寺まで続いたとも言われている。
それまで、さほど豊かとは言えなかった荘厳寺が、保三郎氏の葬儀により、一躍立派な寺に昇格し、お寺仲間から羨望の的となったというから、保三郎氏の影響力は死してなお大きなものがある。
さて、予期せぬ保三郎氏の急逝により困ったことが持ち上がった。
他界する10か月前に、高崎市に「観音さま」の寄付申請をしていたのだが、高崎市議会の正式採納手続きが未了となっていた。
高崎税務署はそれを理由に、「観音さま」を井上家の相続税課税対象とすると言って譲ろうとしなかったそうである。
もし課税対象となれば、総工費の7割を税金として納めなければならなくなる。
私心なき保三郎氏の精神を、当時の市長など地元有力者が再三税務署に説明し、課税免除の陳情をしたが、一向に埒があかなかったようだ。
交渉は延々と続き、その間、税務署長は3人目、直税課長は2人目になっていた。
ついに納税の時効5年が近づいた年末、税務署から出頭命令があった。
井上工業の税務担当をしていた横田忠一郎氏が出頭し、「相続税は免除になるのでしょうか。」と聞くと、署長は「冗談は困るよ。こんな大物を逃がせば、我々は早速首だよ。」と言ったそうである。
当時とすれば、巨額な税収の有無を左右する重大な判断であったろう。
横田氏著「高崎白衣観音のしおり」には、その時のやり取りが記されている。(一部修正)
署長:「横田君も井上さんから遺産をもらったと、世間ではもっぱらの評判だよ。何をもらったのか早く言い給え。株券か、それとも銀行預金か。」
横田:「はい、沢山もらったので、簡単にはお答えできません。」
署長:(鉛筆と紙を手にして)「早く言い給え。」
横田:「私は、井上翁の腰巾着のように満18年間、温かい指導と薫陶を頂きました。翁の数々の教訓は、目に見えぬ大きな、しかも貴重な遺産をもらったと、今になってしみじみ感謝しています。」
署長:(膝を叩いて)「そうか、そうか、よく分かったよ。」
実に格好いい話であるが、おそらく税務署長も既に保三郎氏の奇特な心を理解し、腹の中では結論を出していたのであろう。
これで、やっと「観音さま」は相続税の対象から外されることになった。
すべて、保三郎氏の「只是一誠」の行いと願いを、「観音さま」が見ておられた結果であろう。
井上家の相続税については、まだこんな話もある。
税務署長が保三郎氏の居宅を確認しに来た時、建物の外回りを見せた後、中を案内しようとすると、「もうこれでよい。よく分かった。」と早々に引き揚げて行ったという。
後で聞くと、「井上さんの住まいだから、檜御殿の立派なものだと期待して行ったら、ずいぶん粗末なものだね。」と言ったそうだ。
保三郎氏の居宅は、むかし宇都宮第14師団の請負工事を施工した時の古材で建てたものだという。
横田氏は「翁は、公共のためなら惜しげもなく多額の寄付もするが、日常の私生活は誠に質素なもので、決して贅沢はしません。」と語っている。
保三郎氏の居宅は昭和27年(1952年)火災で焼失し、長男の房一郎氏が建て替えて居宅としていたのが、現在の「高崎哲学堂」の建物である。
その葬儀の花環・供物類は、八島町の居宅玄関前から門前は勿論、近隣の高崎営林署や高崎税務署前、南小学校正門および西側の通りまで並べられ、しまいには小学校校庭まで借用して飾られたと言われる。
葬儀は新後閑町(しごかまち)の荘厳寺(しょうごんじ)で行われたが、参列者の行列は居宅から寺まで続いたとも言われている。
それまで、さほど豊かとは言えなかった荘厳寺が、保三郎氏の葬儀により、一躍立派な寺に昇格し、お寺仲間から羨望の的となったというから、保三郎氏の影響力は死してなお大きなものがある。
さて、予期せぬ保三郎氏の急逝により困ったことが持ち上がった。
他界する10か月前に、高崎市に「観音さま」の寄付申請をしていたのだが、高崎市議会の正式採納手続きが未了となっていた。
高崎税務署はそれを理由に、「観音さま」を井上家の相続税課税対象とすると言って譲ろうとしなかったそうである。
もし課税対象となれば、総工費の7割を税金として納めなければならなくなる。
私心なき保三郎氏の精神を、当時の市長など地元有力者が再三税務署に説明し、課税免除の陳情をしたが、一向に埒があかなかったようだ。
交渉は延々と続き、その間、税務署長は3人目、直税課長は2人目になっていた。
ついに納税の時効5年が近づいた年末、税務署から出頭命令があった。
井上工業の税務担当をしていた横田忠一郎氏が出頭し、「相続税は免除になるのでしょうか。」と聞くと、署長は「冗談は困るよ。こんな大物を逃がせば、我々は早速首だよ。」と言ったそうである。
当時とすれば、巨額な税収の有無を左右する重大な判断であったろう。
横田氏著「高崎白衣観音のしおり」には、その時のやり取りが記されている。(一部修正)
署長:「横田君も井上さんから遺産をもらったと、世間ではもっぱらの評判だよ。何をもらったのか早く言い給え。株券か、それとも銀行預金か。」
横田:「はい、沢山もらったので、簡単にはお答えできません。」
署長:(鉛筆と紙を手にして)「早く言い給え。」
横田:「私は、井上翁の腰巾着のように満18年間、温かい指導と薫陶を頂きました。翁の数々の教訓は、目に見えぬ大きな、しかも貴重な遺産をもらったと、今になってしみじみ感謝しています。」
署長:(膝を叩いて)「そうか、そうか、よく分かったよ。」
実に格好いい話であるが、おそらく税務署長も既に保三郎氏の奇特な心を理解し、腹の中では結論を出していたのであろう。
これで、やっと「観音さま」は相続税の対象から外されることになった。
すべて、保三郎氏の「只是一誠」の行いと願いを、「観音さま」が見ておられた結果であろう。
井上家の相続税については、まだこんな話もある。
税務署長が保三郎氏の居宅を確認しに来た時、建物の外回りを見せた後、中を案内しようとすると、「もうこれでよい。よく分かった。」と早々に引き揚げて行ったという。
後で聞くと、「井上さんの住まいだから、檜御殿の立派なものだと期待して行ったら、ずいぶん粗末なものだね。」と言ったそうだ。
保三郎氏の居宅は、むかし宇都宮第14師団の請負工事を施工した時の古材で建てたものだという。
横田氏は「翁は、公共のためなら惜しげもなく多額の寄付もするが、日常の私生活は誠に質素なもので、決して贅沢はしません。」と語っている。
保三郎氏の居宅は昭和27年(1952年)火災で焼失し、長男の房一郎氏が建て替えて居宅としていたのが、現在の「高崎哲学堂」の建物である。
(参考図書:横田忠一郎氏著「高崎白衣大観音のしおり」 発行:あさを社)
【荘厳寺(井上保三郎氏墓所)】
【高崎哲学堂】