箕郷町西明屋の東端に、「妙福寺」があります。
史跡看板は、参道入り口右側、石標の隣に建っています。
看板真ん中の段落、「鬼子母神は、・・・夜又女でした。」には、吹き出しました。
夜鷹じゃあるまいし、夜の又の女はないでしょう。
たぶん「夜叉女」(やしゃおんな)の誤字でしょうね。
そういえば、石標の「鬼」の字も変ですよね。
「鬼子母神」の「鬼」の字は、てっぺんの「´」が無い字を使うことが多いようです。
Wikipediaによると、
ということです。
ただ、多機能事典Wiktionaryを見ると、漢字の元となる甲骨文字には、はなから「´」はありません。
それにしても「妙福寺」の「鬼」の字は変わってますが、「鬼」の異体字はたくさんあるようで、その中から説話に都合のよい字をとったというところなんでしょう。
「妙福寺」本堂前の枝垂れ桜が有名らしいのですが、すでに散りきっていました。
その代わり、「出猩々」(でしょうじょう)の真っ赤な葉っぱが迎えてくれました。
本堂南に中山安兵衛が造った築庭があるというので、行ってみました。
中山安兵衛が浪人時代、江戸へ向かう途次に箕輪の下田家へ身を寄せ、吉井の馬庭念流道場へ通って剣術修行をしたと伝わっています。
浪人の安兵衛がどこで築庭技術を習得したのか不思議ですが、その時に造ったと言われているのが下田邸の庭園です。
世話になった下田家へのお礼だと思っていたのですが、「妙福寺」の庭も造ったとなると、もしかすると江戸への路銀調達のためだったのかも知れませんね。
失礼して本堂の中を覗かせて頂きましたが、「鬼子母神」らしき仏像は見当たりませんでした。
毎年、十一月十二日が縁日だそうですから、その日にご開帳されるのでしょう。
「箕郷町誌」に載っていた「鬼子母神」の写真を転載させて頂きました。
お釈迦様に諭された後なのでしょう、優しいお顔をされています。
近頃世間では、いたいけな我が子を虐待するという、何とも哀れな事件を見聞きします。
「鬼子母神」の昔話を見てもらって、もう一度優しい心を取り戻してほしいと、切に願う日々です。
史跡看板は、参道入り口右側、石標の隣に建っています。
看板真ん中の段落、「鬼子母神は、・・・夜又女でした。」には、吹き出しました。
夜鷹じゃあるまいし、夜の又の女はないでしょう。
たぶん「夜叉女」(やしゃおんな)の誤字でしょうね。
そういえば、石標の「鬼」の字も変ですよね。
「鬼子母神」の「鬼」の字は、てっぺんの「´」が無い字を使うことが多いようです。
Wikipediaによると、
「鬼子母神」の「鬼」の表記について、寺院によっては、第一画目の点がない字を用いる場合がある。 これは、鬼子母神が釈尊に諭されて改心した結果、角が外れたためである。 |
ただ、多機能事典Wiktionaryを見ると、漢字の元となる甲骨文字には、はなから「´」はありません。
それにしても「妙福寺」の「鬼」の字は変わってますが、「鬼」の異体字はたくさんあるようで、その中から説話に都合のよい字をとったというところなんでしょう。
「妙福寺」本堂前の枝垂れ桜が有名らしいのですが、すでに散りきっていました。
その代わり、「出猩々」(でしょうじょう)の真っ赤な葉っぱが迎えてくれました。
本堂南に中山安兵衛が造った築庭があるというので、行ってみました。
中山安兵衛が浪人時代、江戸へ向かう途次に箕輪の下田家へ身を寄せ、吉井の馬庭念流道場へ通って剣術修行をしたと伝わっています。
浪人の安兵衛がどこで築庭技術を習得したのか不思議ですが、その時に造ったと言われているのが下田邸の庭園です。
世話になった下田家へのお礼だと思っていたのですが、「妙福寺」の庭も造ったとなると、もしかすると江戸への路銀調達のためだったのかも知れませんね。
失礼して本堂の中を覗かせて頂きましたが、「鬼子母神」らしき仏像は見当たりませんでした。
毎年、十一月十二日が縁日だそうですから、その日にご開帳されるのでしょう。
「箕郷町誌」に載っていた「鬼子母神」の写真を転載させて頂きました。
お釈迦様に諭された後なのでしょう、優しいお顔をされています。
近頃世間では、いたいけな我が子を虐待するという、何とも哀れな事件を見聞きします。
「鬼子母神」の昔話を見てもらって、もう一度優しい心を取り戻してほしいと、切に願う日々です。
【妙福寺】