2019年06月09日

史跡看板散歩-144 清水善造生誕の地

箕郷町図書館の相向いに、伝説のテニスプレーヤー・清水善造生誕地の史跡看板が建っています。
史跡看板散歩-144 清水善造生誕の地
史跡看板散歩-144 清水善造生誕の地

看板の冒頭、「やわらかなボールの逸話」というのが出てきます。
この話は、倉賀野出身で当時体操界の著名なリーダーであった矢島鐘二が、大正十三年(1924)に著した「スポーツマンの精神」の中で「美はしき球」(うるわしきたま)という題で初めて世に紹介されます。
史跡看板散歩-144 清水善造生誕の地
史跡看板散歩-144 清水善造生誕の地

ちょっと字が読みにくいので、色を付けた部分だけ書き出してみましょう。
一心不亂(らん)に身入って据えた瞳に、傷はしや(いたわしや)チルデン君の片足辷(すべ)らして、取り亂した姿が寫(うつ)りました。
米人は驚倒しました。躍氣となりました。
この時淸水君は、チルデン君の血走った眼元に、取り亂した脚元に、柔らかい程のよい球を送ってやりました。
この瞬間の君の心には、優勝した時の名礜感情も、自尊感情も、全く捨てられてあります。
ミスターシミツ!!!の歓呼の聲と共に、燃ゆるが如き米人三萬の手が、林の如く一齋に振り上りました。」

「美はしき球」の話は、昭和八年(1933)に文部省検定教科書「新制女子国語読本」に掲載されたのを初めに、戦前・戦後にわたって多くの教科書に取り上げられることになります。
史跡看板散歩-144 清水善造生誕の地

取り上げられる度に、微妙に内容や表現が変化しているのですが、肝になる部分は「体勢を崩した相手選手に対し、敢えて打ちやすいゆるいボールを送ったフェアプレー」です。

ところが、ノンフィクション作家・上前淳一郎は、昭和五十七年(1982)に発行した著書「やわらかなボール」の中で、独自な描写をしています。
チルデンの返球は、ふらふらネットを越えてきた。拾うために、清水は前へ出る。視野のすみに、起き上がろうとするチルデンが入っている。
どちらのコーナーへ打ち返すべきか---瞬間清水は迷った。左はがら空きだ。しかし、相手は起き上がるとすぐ、左へ球が来ることを予測して、走り出すだろう。それならば裏をかいて、いまチルデンがいる右コーナーへ打つか・・・・・。
十分決断しないまま、ラケットを振った。球は右コーナー、チルデンがいる側へ、いつもの清水の打球と同じように、ゆっくりと飛んだ。
それを見ながら起き直ったチルデンは、激しく叩き返した。球は鋭いパスになって、一直線に清水のわきを抜けていった。」
つまり、清水はわざとゆるい球を返したのでなく、迷いによりゆるい返球になったという訳です。

上前淳一郎は、この本を書くにあたって国内外の関係者に丹念な取材をしており、こんなエピソードも紹介しています。
『そんなことが、あったのですか』
教科書のエピソードが有名になるにつれて、しばしばたずねられるようになった。
そのつど彼(清水)は、かつて講演会のあとで聞かれてそうしたのと同じように、肯定も否定もせず、ただ笑っていた。
『ほんとうのところは、どうだったのですか』
ごく親しいテニスの後輩たちは、世間の人々とは少し違う関心から、熱心にたずねた。
彼らにとって清水は、その一挙手一投足にさえ従うべき偉大な先輩である。相手が足を滑らせたときにゆるい球を返してやるのがテニスのマナーであるならば、自分たちもそうしなければならないのだ。
後輩たちに問いただされると、笑ってばかりいるわけにはいかない。清水はいかにも彼らしいいい方で答えた。
『もともとぼくの球はゆるいからね。そんなふうに見えることがあったかも知れない。』
それを聞いて後輩たちは、意図的にゆるい球を返すような出来事はなかったのだ、ということを即座に理解した。

また、平成二十年(2008)上毛新聞社が10回にわたり清水善造ら群馬のテニスプレーヤーを取り上げた特別記事を掲載しましたが、その中でも「やわらかなボール」の真相について触れています。
史跡看板散歩-144 清水善造生誕の地

野暮な詮索はこの辺にしておきましょう。
矢島鐘二は、当時のスポーツ青年に対しての憂いとも怒りとも取れる思いを、「スポーツマンの精神」の中で述べています。
私はかつて或る郡の青年連合運動会に、立合った事がありますが、競技運動半ばにして、不平不服の抗議が混線した揚句、或る村の青年や父兄は、喇叭(ラッパ)に歩調を揃えて、会場から引き揚げて仕舞いました。
又、いつかは中等学校の野球試合に於いて、その下劣なる弥次(やじ)、粗放なる選手の態度に、冷や冷や思わされたこともあります。
即ち動(やや)もすれば今日の体育が、其の内容を欠き、目的の人間を忘れて、旗をとりたい、勝ちたいの形式に陥って居るのみならず、延(ひ)いて村と村、学校と学校、団体と団体との仲違(たが)いとなるような、忌む可き副産物をさえ醸しているのであります。」

矢島は、それらの青年や父兄・指導者たちに考えてもらう材料として清水善造というスポーツマンを取り上げたのであって、多少の誇張や脚色は本質を伝えるための手法だったのでしょう。

さて、それから95年を経た現在、矢島鐘二の思い願ったスポーツ界は、はたして実現されているのでしょうか。

清水善造についてもっと知りたいという方は、「日本テニス協会」のHPに、上毛新聞「山河遥か 上州・先人の軌跡」の連載記事が転載されていますので、そちらをご覧ください。


【清水善造生誕の地】





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この記事へのコメント
先日箕郷町図書館に行ってきたばかりです。まさか図書館の目の前に看板があったとは、気が付きませんでした。清水善三さんがここから高崎中まで毎日通ったなんて、昔の人の体力と根気には脱帽ですね。
Posted by 梅太郎一座  at 2019年06月10日 14:38
>梅太郎一座さん

昔のスポーツ選手には、日常の生活の中で自然に並外れた体力を獲得したという人が少なくないみたいですね。
稲尾投手の鉄腕は舟の櫓こぎで造られたとか、金田投手の握力は炭団づくりから生まれたとか。
モンゴル力士が強いのも、そうなのかなぁ。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2019年06月10日 20:08
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