「普賢寺」から南の方角に、「不動山古墳」が見えます。
反対側に回って、旧例幣使街道の方から見ると、「上州綿貫不動尊」という看板があって、石段の上り口に史跡看板が建っています。
初め、「普賢寺裏古墳」と書いちゃったらしくて、シールを貼って訂正されていました。
どうせ直すんだったら、同じフォントサイズにすればよかったのになぁ・・・。
「不動山古墳」については、教育委員会が設置した説明板が建っています。
古墳の名前にもなっている「不動尊」は、石段上のお堂に祀られています。
奉納幕に「普賢寺檀徒一同」と書いてあります。
「普賢寺」の由緒に、「不動尊像自然石仏御長寺之前山に御安座 堂無御座候」(新編高崎市史資料編14)とありますので、初めはお堂もなかったようです。
お堂が出来てからは村人の集いの場ともなったのでしょう、お堂の脇に「念佛講」の塔があります。
お堂の裏の覆い屋に、「舟形石棺」が置かれています。
昭和三十六年(1961)の調査時、すでに石棺は露出した状態で蓋はなかったそうです。
調査にあたった梅澤重昭氏によれば、「井野川流域に勢力圏を確立する”上毛野”の中枢豪族の草分け的性格を持っていた首長であったことはほぼ間違いないところであろう。」(新編高崎市史資料編1)ということです。
「不動山古墳」については、もうこれ以上書くこともないので、この付近の話題を一つ。 → ◇「例幣使街道 寄道散歩(7)」
では、また。
反対側に回って、旧例幣使街道の方から見ると、「上州綿貫不動尊」という看板があって、石段の上り口に史跡看板が建っています。
初め、「普賢寺裏古墳」と書いちゃったらしくて、シールを貼って訂正されていました。
どうせ直すんだったら、同じフォントサイズにすればよかったのになぁ・・・。
「不動山古墳」については、教育委員会が設置した説明板が建っています。
古墳の名前にもなっている「不動尊」は、石段上のお堂に祀られています。
奉納幕に「普賢寺檀徒一同」と書いてあります。
「普賢寺」の由緒に、「不動尊像自然石仏御長寺之前山に御安座 堂無御座候」(新編高崎市史資料編14)とありますので、初めはお堂もなかったようです。
お堂が出来てからは村人の集いの場ともなったのでしょう、お堂の脇に「念佛講」の塔があります。
お堂の裏の覆い屋に、「舟形石棺」が置かれています。
昭和三十六年(1961)の調査時、すでに石棺は露出した状態で蓋はなかったそうです。
調査にあたった梅澤重昭氏によれば、「井野川流域に勢力圏を確立する”上毛野”の中枢豪族の草分け的性格を持っていた首長であったことはほぼ間違いないところであろう。」(新編高崎市史資料編1)ということです。
「不動山古墳」については、もうこれ以上書くこともないので、この付近の話題を一つ。 → ◇「例幣使街道 寄道散歩(7)」
では、また。
【不動山古墳】