綿貫町の「普賢寺」(ふげんじ)です。
史跡看板は、境内の池のほとりに建っています。
看板に掲載されている5つの石造物、境内のあちこちにバラけてますので、宝探しのような楽しみが味わえます。
発見した証拠に、写真を載せておきましょう。
一見そうは見えないのに、実は恐いのが「奪衣婆」です。
看板に書かれている「奪衣婆」(だつえば)が剝ぎ取った亡者の衣類は、「懸衣翁」(けんえおう)に渡った後どうなるのでしょう。
「懸衣翁」はそれを「衣領樹」(えりょうじゅ)という木の枝に懸けます。
すると、枝の垂れ下がり具合によって、亡者の生前の罪の軽重が分かっちゃうんだそうです。
さしずめ私のなんぞは、枝が折れちゃうかもしれませんが・・・。
ところで、なんで枝の垂れ下がり具合で、罪の軽重が分かるんだと思います?
僧侶で小説家の玄侑宗久氏「三途の川の日本的変質」によると、人は死ぬと初七日に「十王」のひとり「秦広王」(しんこうおう)の審判を受け、「三途の川」をどう渡るかが決められるのだそうです。
その三つの途があるので、「三途の川」という訳です。
もっとも、「三途の川」はとてつもなく広い川らしくて、川幅40由旬(ゆじゅん)≒16~24km(諸説あり)というのですから、いずれの途も大変なことです。
「奪衣婆」と「懸衣翁」は、その「三途の川」を渡った向こう岸にいます。
つまり、どういう渡り方をしてきたかによって、衣類に含まれる水の量が違うので、重さを計れば罪の軽重が分かるという仕組みです。
ま、近頃は、「地獄の沙汰も金次第」だそうですが・・・。
「普賢寺」の裏に、小山があります。
これは古墳で、そのまんま「普賢寺裏古墳」という名前がついてます。
この辺は古墳の多いところで、「綿貫古墳群」と呼ばれ、すぐ近くには国指定史跡の「観音山古墳」や、市指定史跡の「不動山古墳」もあります。
南北の曲線状に分布しているのは、井野川の流れと関係しているのかも知れません。
古代人は、ここでどんな暮らしをしていたのでしょう。
見てみたいものです。
史跡看板は、境内の池のほとりに建っています。
看板に掲載されている5つの石造物、境内のあちこちにバラけてますので、宝探しのような楽しみが味わえます。
発見した証拠に、写真を載せておきましょう。
一見そうは見えないのに、実は恐いのが「奪衣婆」です。
看板に書かれている「奪衣婆」(だつえば)が剝ぎ取った亡者の衣類は、「懸衣翁」(けんえおう)に渡った後どうなるのでしょう。
「懸衣翁」はそれを「衣領樹」(えりょうじゅ)という木の枝に懸けます。
すると、枝の垂れ下がり具合によって、亡者の生前の罪の軽重が分かっちゃうんだそうです。
さしずめ私のなんぞは、枝が折れちゃうかもしれませんが・・・。
ところで、なんで枝の垂れ下がり具合で、罪の軽重が分かるんだと思います?
僧侶で小説家の玄侑宗久氏「三途の川の日本的変質」によると、人は死ぬと初七日に「十王」のひとり「秦広王」(しんこうおう)の審判を受け、「三途の川」をどう渡るかが決められるのだそうです。
1. | 善人は、金銀七宝でできた橋を渡る。 |
2. | 罪の浅い者は、水量が膝下までという浅水瀬:せんすいせ(山水瀬:さんすいせ)を渡る。 |
3. | 罪の重い悪人は、強深瀬:ごうしんせ(江深淵:こうしんえん)という深い激流を泳いで渡る。 |
その三つの途があるので、「三途の川」という訳です。
もっとも、「三途の川」はとてつもなく広い川らしくて、川幅40由旬(ゆじゅん)≒16~24km(諸説あり)というのですから、いずれの途も大変なことです。
「奪衣婆」と「懸衣翁」は、その「三途の川」を渡った向こう岸にいます。
つまり、どういう渡り方をしてきたかによって、衣類に含まれる水の量が違うので、重さを計れば罪の軽重が分かるという仕組みです。
ま、近頃は、「地獄の沙汰も金次第」だそうですが・・・。
「普賢寺」の裏に、小山があります。
これは古墳で、そのまんま「普賢寺裏古墳」という名前がついてます。
この辺は古墳の多いところで、「綿貫古墳群」と呼ばれ、すぐ近くには国指定史跡の「観音山古墳」や、市指定史跡の「不動山古墳」もあります。
(赤色は現存していない古墳)
南北の曲線状に分布しているのは、井野川の流れと関係しているのかも知れません。
古代人は、ここでどんな暮らしをしていたのでしょう。
見てみたいものです。
【綿貫町普賢寺】