
「高崎市制百年展」をきっかけにそのことが明らかになり、慈眼院で供養を行ったという記事です。
この時は、慈眼院二代目住職(開基からは二十八代目)の橋爪良恒師や、一路堂を設計した水原徳言氏もご存命だったんですね。
今お会いできたら、お聞きしたいことが山ほどあるのですが・・・。
記事では、「模型は大観音の原型としてつくられたもの」とありますが、一体がおそらく森村酉三作の原型像で、あとの二つはそのレプリカだと思われます。
橋爪良恒師が書かれた本によれば、慈眼院所有の一体も、もともとは井上保三郎が持っていたもので、戦後になって井上家本宅の改築をする際、房一郎氏から寄贈されたものだそうです。
たぶんこれが原型像なのでしょう。
当時、良恒師はこの他に二体の模型があることは知らず、昭和五十年代の初め、横田忠一郎氏からその話を聞いて知ったということです。
ただ、どこにあるのかは分からずにいたのですが、良恒師が二体目の原型模型と対面するきっかけは、新聞で歴史的建造物を紹介していたHさんとの出会いだったそうです。
Hさんからの話で、かつて井上工業で仕事に携わっていた方のお宅に原型模型が残っていることが分かり、これが縁で「高崎市制百年展」の会場に二体の原型模型が展示されることとなりました。
さらに、この新聞記事を見た三体目の原型模型の所有者が名乗り出てきたことにより、「高崎市制百年展」の会場には、期せずして三体の原型模型が並んだという訳です。
原型模型は、記念品として配ったようなものではなく、大観音像を建設するために必要なものだったのです。
ひとつは、施工のための実施設計をするため、設計担当者に渡されました。

普段は厨子に納められていますが、写真を撮るならと、取り出してくださいました。
首のところが欠けていますが、これは文二郎氏が自宅と現場の間を持ち運んでいたからだそうで、当時ですから車もなくて、自転車やバイクで持って行くので、振動で欠けてしまったらしいと仰っていました。
文二郎氏は、明治二十四年(1891)の高崎生まれです。
学校を卒業して井上工業に入社すると、保三郎から建築を学問として学ぶことを勧められ、学費も出してもらって東京新宿の「工手(こうしゅ)学校」(後の工学院大学)建築学部に入学します。
大正二年(1913)に卒業して、再び井上工業で設計及び工事監理の仕事に従事し、関わった主な建物は、「群馬会館」「日本製粉高崎工場製粉工場本館」※「旧陸軍岩鼻火薬製造所」などです。

残っていれば、貴重な歴史遺産であったはずですが・・・。
※ | (Hさんよりのコメント:日本製粉高崎工場の設計は、文二郎氏でなく木子七郎氏とのことです。) 1月24日追記 |
その難しい設計をこなした文二郎氏だからこそ、今まで誰もやったことのない、世界一のコンクリート製大観音像の設計を任されたのでしょう。
しかし、いかな文二郎氏でも、世界初の大観音像の設計は、とてつもなく難しいものだったようです。
ご子息がこう回想しています。
「 | 夜中、というより明け方近くに便所に行こうとすると、親父の部屋の灯りが点いている。 |
そっと覗くと、模型にメジャーを当てては図面に移し描いている。 | |
それを何回も何回も繰り返していました。」 |
そして工事に入れば、市内から観音山まで自転車やバイクで通って、現場監理をするという毎日でした。
そんな心身の無理が重なったためか、文二郎氏は結核に冒されてしまい、白衣大観音の開眼式を2週間後に控えた昭和十一年(1936)十月八日、帰らぬ人となりました。
享年46歳の若さでありました。
文二郎氏は生前、「大旦那に足を向けて寝られない。」というのが口癖だったそうです。
保三郎翁に「工手学校」へ出してもらった恩義を、深く感じていたのでしょう。
その保三郎が決意した白衣大観音建設という大工事に、文二郎氏はまさに命を懸けて報恩したのです。
きっと空の上から、開眼式の様子を嬉しそうに見ていたに違いありません。
さて次回は、もう一つの原型模型を託された人物のご紹介です。