もうひとつの白衣大観音原型模型は、左官工事の責任者・山本宗太郎氏に渡されました。
こちらの原型模型像は、広い玄関廊下の奥の、透明ケース付き専用台に安置されていました。
この模型像も現場との間を持ち運びしていたものか、指が欠けてしまっていたそうですが、展示するときに修理してもらったとのことです。
ということで、慈眼院・設計者・左官職人の三者に渡った原型模型像なんですが、もしかすると、もう一体あるかも知れないのです。
それも、銀色に輝くのが。
橋爪良恒師の著書の中に、こんな話が出てきます。
銀の観音像は、今でも田中邸にあるのでしょうか。
何かの機会に、お里帰りさせて頂けたら嬉しいですね。
話を戻しますが、こちらのお宅には、白衣大観音内の「胎内仏」の原画というのも残されています。
たまたま押し入れの天袋の中から出てきて、見つけた奥様は何の絵なのか分からなかったそうですが、ご子息に「観音さまの中に、これと同じのがあったよ。」と言われて、そうなんだと思ったそうです。
見せて頂いた原画は17枚しかなかったので、きっとまだどこかに何枚かあるのだと思います。
そして、あれ?と思ったのは、その原画の中に、胎内仏にはなかった「千手観音」の絵があるんです。
ということは、最初は「千手観音」も胎内仏として祀る予定だったのかも知れません。
もしそうだとすれば、胎内仏は子年から亥年まで、すべての守り本尊を予定していたことになります。
そして気になるのは、この原画の作者は誰なんだろうということです。
奥様のお話では、原画に鉛筆書きされている字は「おじいちゃんの字に間違いない。」と言います。
おじいちゃんというのは、宗太郎氏のもとに養子に入った誠一氏のことで、観音さまの工事には父子で携わっていたそうです。
誠一氏は絵が上手だったといいますし、原画はマス目の入った厚手の用紙に描かれていましたので、いわゆる絵師が描いたものではなく、誠一氏の手によるものだと、その時は思ったのですが・・・。
前回コメントでいろいろ教えて頂いたHさんによると、高崎工務所の桑原勝馬氏の甥・桑原千里氏が胎内仏の下絵の作者と伝わっているということでした。
また、胎内仏の選定は保三郎と井出存義という人で、井出存義氏は白衣観世音建立趣旨の草稿を書いた人でもあるそうです。
さて、また話を戻しまして、奥様から「あれも、そうらしいですよ。」と教えてもらったものがあります。
太鼓橋の下にある象の塑像、これも山本父子の作らしいです。
いままで、「あぁ、こんな所に象の像があらぁ。」なんてダジャレを言ってたんですが、これからは見る目が少し変わってくるかもしれません。
それからこれも奥様に教えて頂いたのですが、とあるスナックの入口のちょっと不似合な築山の上にあるお城、これも誠一氏晩年の作品だそうです。
場所は申し上げられませんが、見つけてみてください。
さて、まだまだ観音山は続きます。
では、また次回。
こちらの原型模型像は、広い玄関廊下の奥の、透明ケース付き専用台に安置されていました。
この模型像も現場との間を持ち運びしていたものか、指が欠けてしまっていたそうですが、展示するときに修理してもらったとのことです。
ということで、慈眼院・設計者・左官職人の三者に渡った原型模型像なんですが、もしかすると、もう一体あるかも知れないのです。
それも、銀色に輝くのが。
橋爪良恒師の著書の中に、こんな話が出てきます。
「 | たしか昭和四十七年だったかと思うが、田中角栄氏が総理に就任された時、房一郎氏来り、『君、あの原型を基にして銀製の複製をつくり総理に贈呈するから、一寸借りていくよ』とのたまい、持っていかれて、しばらくして、その出来上がった銀の観音像を房一郎氏のお供で目白の田中邸へ持参した。 |
角栄氏はすこぶるご機嫌で、盛んに昔の話をしておられたのを覚えている。(略) | |
寺へ帰ってきた原型は、あまり見慣れない私の目にも、『おや、ちょっと変わった』と思えるほど、いささかダイエットをして、すらりとしてスマートな出で立ちになっていた。 | |
後にくらべる時、あれはあきらかに、田中氏贈呈用のレプリカをつくる時に、若干の手直しをしたなと思った。」 |
銀の観音像は、今でも田中邸にあるのでしょうか。
何かの機会に、お里帰りさせて頂けたら嬉しいですね。
話を戻しますが、こちらのお宅には、白衣大観音内の「胎内仏」の原画というのも残されています。
たまたま押し入れの天袋の中から出てきて、見つけた奥様は何の絵なのか分からなかったそうですが、ご子息に「観音さまの中に、これと同じのがあったよ。」と言われて、そうなんだと思ったそうです。
見せて頂いた原画は17枚しかなかったので、きっとまだどこかに何枚かあるのだと思います。
そして、あれ?と思ったのは、その原画の中に、胎内仏にはなかった「千手観音」の絵があるんです。
ということは、最初は「千手観音」も胎内仏として祀る予定だったのかも知れません。
もしそうだとすれば、胎内仏は子年から亥年まで、すべての守り本尊を予定していたことになります。
そして気になるのは、この原画の作者は誰なんだろうということです。
奥様のお話では、原画に鉛筆書きされている字は「おじいちゃんの字に間違いない。」と言います。
おじいちゃんというのは、宗太郎氏のもとに養子に入った誠一氏のことで、観音さまの工事には父子で携わっていたそうです。
誠一氏は絵が上手だったといいますし、原画はマス目の入った厚手の用紙に描かれていましたので、いわゆる絵師が描いたものではなく、誠一氏の手によるものだと、その時は思ったのですが・・・。
前回コメントでいろいろ教えて頂いたHさんによると、高崎工務所の桑原勝馬氏の甥・桑原千里氏が胎内仏の下絵の作者と伝わっているということでした。
また、胎内仏の選定は保三郎と井出存義という人で、井出存義氏は白衣観世音建立趣旨の草稿を書いた人でもあるそうです。
さて、また話を戻しまして、奥様から「あれも、そうらしいですよ。」と教えてもらったものがあります。
太鼓橋の下にある象の塑像、これも山本父子の作らしいです。
いままで、「あぁ、こんな所に象の像があらぁ。」なんてダジャレを言ってたんですが、これからは見る目が少し変わってくるかもしれません。
それからこれも奥様に教えて頂いたのですが、とあるスナックの入口のちょっと不似合な築山の上にあるお城、これも誠一氏晩年の作品だそうです。
場所は申し上げられませんが、見つけてみてください。
さて、まだまだ観音山は続きます。
では、また次回。