観音山への入口ともいうべき、「聖石橋」です。
昭和六年(1931)に木橋からコンクリート橋に架け替えられ、平成十九年(2007)には拡幅されて立派な橋になりました。
昭和四十五年(1970)発行の「高崎市史」によると、
ということです。
このことについて、実は市史編纂委員のN先生から、新資料が発見されたとして、2年前にこんなお手紙を頂戴していました。
「君ヶ代橋」も、明治十一年(1878)まで橋銭を取っていたらしいですが、明治七年(1874)開校の「豊岡小学校」の創設資金に充てたそうです。(過去記事「なんじゃ、これ?」)
「聖石橋」の橋銭も、きっと村のために役立てたんだと思いますが。
「聖石橋」の名前の由来となった「聖石」は、相変わらず草木に埋もれて見ることができません。
これも過去記事で、さんざっぱら嘆いておきましたので、改めて嘆きたくはないのですが、やっぱり「あ~ぁ・・・。」と出る溜息は抑えられません。
今、「聖石橋」の上流側では、「桜観音橋」と「天然芝サッカー場」の工事が盛んに行われています。
烏川に親しむ施設としてとても良いことだと思うのですが、併せて高崎の歴史的名勝「聖石」の整備も忘れないようにしてほしいと思うのです。
「聖石橋」の下流側から国道の方を振り返ると、水門のようなのが見えますが、ここが「高崎城遠構え」の落とし口です。
現在は遠構えもすべて暗渠になってしまっていますが、「龍廣寺」東のこの細い道が遠構えの跡です。
明治三十五年(1902)発行「大日本宝鑑 上野名蹟図誌」の「龍廣寺之景」には、遠構えが水路として描かれています。↓
「龍廣寺」付近は水量が多く勢いもよかったようで、水車が幾つも設けられていたそうです。
橋を渡り、石原の信号を渡った右側に「聖石神社」があります。
石燈籠には、昭和二十七年(1952)と刻まれていますので、神社もその頃祀られたものでしょうか。
石燈籠の奉納者は、あの田村今朝吉翁でした。
柔らかい三国石で造られた石祠は、少し崩れている部分もありますが、見事な彫りです。
さ、次回はもう少し先へ進みましょう。
昭和六年(1931)に木橋からコンクリート橋に架け替えられ、平成十九年(2007)には拡幅されて立派な橋になりました。
昭和四十五年(1970)発行の「高崎市史」によると、
「 | ここははじめ渡船場として新田町(しんでんまち)の持ちであった。 |
この付近には城下下に木戸番所があり、橋はなく舟で渡していたもので、のちに石原村持ちとなって、舟をつなぎ、その上に板を乗せた舟橋が、毎年十月につくられ、翌年四月にそれを撤去したのは、豪雨のために舟橋が流失するからで、夏は従って舟渡しとなった訳である。 | |
のちに土橋ができたが、巾六尺に過ぎず、しかもこれは石原村の設営であったから、当然渡し賃金を徴収していた。(略) | |
明治三十年(1897)頃も板を敷いた仮橋で、大人一銭子ども五厘の橋銭をとっていたが、吉井街道が県道に指定された大正年代になって木橋になった。 | |
さらに昭和九年(1934)に高崎地方で特別大演習が挙行されるにあたり、乗附練兵場が観兵式式場となり、天皇陛下が親しく御臨幸になるためこの橋もその時鉄筋コンクリートの永久橋に改造された。」 | |
このことについて、実は市史編纂委員のN先生から、新資料が発見されたとして、2年前にこんなお手紙を頂戴していました。
「 | 明治十三年(1880)十二月聖石橋木橋ができ、税金ではなく地元有志が出資建設した橋なので有料橋となり、5年おきに橋銭徴収願いが出されていました。 |
ところが、明治三十四年(1901)の継続出願に際して、『無料にした方が人民の益になるのではないか、不許可にしたいが高崎市の意見を聞きたい。』と、群馬県から高崎市へ諮問があった。 | |
高崎市議会は、地元有志の橋建設負債を肩代わりすることや、今後生ずる橋の維持管理費などに難色を示して、相変わらず有料が続いたらしい。明治四十二年(1909)には値上げ願いが出されている(一人5銭→6銭)。 | |
結局、昭和六年(1931)にコンクリ橋ができるまで有料だったらしいが、その辺の細かいことがよく解らない。」 |
「君ヶ代橋」も、明治十一年(1878)まで橋銭を取っていたらしいですが、明治七年(1874)開校の「豊岡小学校」の創設資金に充てたそうです。(過去記事「なんじゃ、これ?」)
「聖石橋」の橋銭も、きっと村のために役立てたんだと思いますが。
「聖石橋」の名前の由来となった「聖石」は、相変わらず草木に埋もれて見ることができません。
これも過去記事で、さんざっぱら嘆いておきましたので、改めて嘆きたくはないのですが、やっぱり「あ~ぁ・・・。」と出る溜息は抑えられません。
今、「聖石橋」の上流側では、「桜観音橋」と「天然芝サッカー場」の工事が盛んに行われています。
烏川に親しむ施設としてとても良いことだと思うのですが、併せて高崎の歴史的名勝「聖石」の整備も忘れないようにしてほしいと思うのです。
「聖石橋」の下流側から国道の方を振り返ると、水門のようなのが見えますが、ここが「高崎城遠構え」の落とし口です。
現在は遠構えもすべて暗渠になってしまっていますが、「龍廣寺」東のこの細い道が遠構えの跡です。
明治三十五年(1902)発行「大日本宝鑑 上野名蹟図誌」の「龍廣寺之景」には、遠構えが水路として描かれています。↓
「龍廣寺」付近は水量が多く勢いもよかったようで、水車が幾つも設けられていたそうです。
橋を渡り、石原の信号を渡った右側に「聖石神社」があります。
石燈籠には、昭和二十七年(1952)と刻まれていますので、神社もその頃祀られたものでしょうか。
石燈籠の奉納者は、あの田村今朝吉翁でした。
柔らかい三国石で造られた石祠は、少し崩れている部分もありますが、見事な彫りです。
さ、次回はもう少し先へ進みましょう。