巨額の私財を投じて、「田村隧道」を掘削したという田村今朝吉(たむら・けさきち)氏とは、どんな人物だったのでしょう。
実は過去記事「観音さま」を建てた人に、ちょこっとだけ登場しています。
そうです、観音山の駐車場から白衣観音へ向かう参道の途中、右側の高台に立っている銅像、これが田村今朝吉氏です。
銅像の碑文には、こう刻まれています。
今朝吉氏は、片岡小学校を卒業してから、農業や運送業をしていました。
やがて聖石橋の近くで呉服店を営みながら製糸工場も始めますが、烏川の堤防工事により移転することになります。
店を片岡小学校の西側に移すとともに、これを機に沢山の機械を揃えて「高松製糸所」という製糸工場を設立します。
昭和三年(1928)、今朝吉氏32歳のときです。
「高松製糸所」のあった場所は、現在の「とりせん石原店」の所です。
この「高松製糸所」の事業が、後に「田村隧道」掘鑿に大きな力を発揮することになるのですが、その話はまた後日。
今朝吉氏は、昭和二十一年(1946)に「田村隧道」を完成させた後も、各種の事業を興しています。
昭和二十六年(1951)には、草津温泉に「高松旅館」を設立。
昭和二十八年(1953)には、「石原保育園」を設立して理事長を勤めます。
そして昭和三十七年(1962)、今朝吉氏66歳の時に創立したのが「観音山ヘルスセンター」です。
当時、「高崎フェアリーランド」とともに、観音山へ通年客を呼び寄せることのできる施設でした。
しかし、残念ながら平成二年(1990)に閉館となって今は影も形もなくなり、それを知る人も少なくなってしまいました。
その15年前の昭和五十年(1975)、今朝吉氏はその閉館を知ることなく、79歳の生涯を閉じました。
かつて、観音山観光に多大な貢献をした「観音山ヘルスセンター」という施設があったということを、田村今朝吉氏の名とともに記憶に留めておきたいと思います。
さて、次回は「田村隧道」掘鑿の経緯についてご紹介いたします。
実は過去記事「観音さま」を建てた人に、ちょこっとだけ登場しています。

銅像の碑文には、こう刻まれています。
翁は明治二十九年(1896)四月十八日高崎市乗附町に生まる。父は塚越助太郎母ヨシ長じて田村家の養子となり、田村ソノと結婚二男四女あり。 |
その人となりは至誠温厚にして活気旺盛なり。始め呉服商を営み後製糸業を経営するに当たりては刻苦勉励商器縦横にしてよくその業を大成する。 あまねく郷村の信望を担い産業振興の先駆となる。即ち金ヶ崎隧道を掘鑿して農業の生産向上に寄与し、養蚕の発達を図りまた教育事業・社会事業のため盡す等その業績は廣く枚挙にいとまなし、ために昭和二十六年、同三十年再度紺綬褒章を賜るの栄に浴す。 |
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翁の郷村を思い、多大の私財を投じて公共各般の事業に貢献する徳やまことに廣範にして深慮に通ず。郷村相挙りて翁の徳を顕彰してこの像を建つるなり。 | |
昭和三十四年四月十八日 |
今朝吉氏は、片岡小学校を卒業してから、農業や運送業をしていました。
やがて聖石橋の近くで呉服店を営みながら製糸工場も始めますが、烏川の堤防工事により移転することになります。
店を片岡小学校の西側に移すとともに、これを機に沢山の機械を揃えて「高松製糸所」という製糸工場を設立します。
昭和三年(1928)、今朝吉氏32歳のときです。
「高松製糸所」のあった場所は、現在の「とりせん石原店」の所です。
この「高松製糸所」の事業が、後に「田村隧道」掘鑿に大きな力を発揮することになるのですが、その話はまた後日。
今朝吉氏は、昭和二十一年(1946)に「田村隧道」を完成させた後も、各種の事業を興しています。
昭和二十六年(1951)には、草津温泉に「高松旅館」を設立。
昭和二十八年(1953)には、「石原保育園」を設立して理事長を勤めます。

当時、「高崎フェアリーランド」とともに、観音山へ通年客を呼び寄せることのできる施設でした。

その15年前の昭和五十年(1975)、今朝吉氏はその閉館を知ることなく、79歳の生涯を閉じました。
かつて、観音山観光に多大な貢献をした「観音山ヘルスセンター」という施設があったということを、田村今朝吉氏の名とともに記憶に留めておきたいと思います。
さて、次回は「田村隧道」掘鑿の経緯についてご紹介いたします。
(参考図書:「片岡の歴史」「高崎人物年表」)
【田村今朝吉翁 銅像】