「田村隧道」の調査を始めた頃、隧道がどこを通っているのか全く分かりませんでした。
ネットや文献にかろうじて名前は出てくるものの、地図で示されたものは見つからなかったのです。
そこで、「金ヶ崎用水」を管理している西部土地改良区を訪ねてみました。
たまたま居合わせたご年配の男性が「田村隧道」の場所をご存知だということで、案内までして下さいました。
「この水路の延長なんだいね。」という、最近造られたように見える水路には、数cmのたまり水があるだけでした。
「田村隧道は、今は使われてないんですか?」と聞くと、「素掘りで、はぁ、崩れちゃってるから。」というお話しでした。
「隧道の入り口も塞いじゃってるんですかね。」と言うと、「あるとすりゃ、この先だけどね。」と丘陵に近いところまで行ってみました。
草に覆われていて写真ではよく分かりませんが、ゴミ除けの柵の向こうにコンクリート管の丸い穴は確認できました。→
←「金ヶ崎用水の歴史」によると隧道の入り口はこんな感じで、高さ1.1m、幅1.4mくらいだったそうですが、そういう穴はありませんでした。
隧道が使われてないとすると、やたら人が入れないように、塞いでしまったのかも知れません。
では、現在「金ヶ崎用水」の水は、どのような経路で流れているのでしょうか。
改めて、「金ヶ崎用水」の取水口から、水路を辿ってみました。
←乗附・鼻高線に沿って、東へ進みます。
高崎市清掃管理事務所の信号を越えたところに、水門がありました。→
←道路の反対側へ行ってみると、草に覆われた水路が、「田村隧道」入口だった辺りへ向かって一直線に伸びています。
さっきの水門が、隧道への取水口だったのでしょう。
「金ヶ崎用水」の本流は、水門の脇をすり抜けるようにして「乗附緑地」へ向かいます。
緑地内に入った水路は暗渠となり、東駐車場の四角い桝に流れ込んでいます。→
不思議なのは、ここからです。
東駐車場の桝から先、水路らしきものが見当たらないのです。
歩道の下を通っているのかとも思いましたが、それもありません。
わざわざ車道の下を水路にするのも不自然です。
いったいどうなっているんだ、と桝の中を覗きこんでみると、ここで直角に曲がって、円筒形のコンクリート管へ流れ込んでいるではありませんか。
じゃ、道路を横断した先に暗渠があるのかと思い行ってみましたが、それらしきものは見当たりません。
はて・・・?
あっ!ぼっとかして!
ひらめきました。
「金ヶ崎用水の歴史」に書かれていた「横トンネル」のことです。
ここから「田村隧道」に流し込んでるんじゃないか!
そう思ったら、もう矢も楯もたまりません。
三が日の明けるのを待ちかねるようにして西部土地改良区にお電話し、そのことを確認しました。
事務員の方がすぐ連絡をとって下さって、役員をされているという方からお電話を頂きました。
その方は72歳と仰っていましたが、さらに先輩の方に聞いて下さったそうです。
お話によると、素掘りの「田村隧道」はところどころ崩れてしまい、昭和五十年頃に建設された乗附・鼻高線の道路工事の際に水路を変更して、「田村隧道」入口からの通水はしなくなったとのことでした。
しかし、その付近にある田畑への給水のために水門を設け、田の時期だけ水を流し、その余り水は旧「田村隧道」へ排水しているのだそうです。
「金ヶ崎用水」は、農業用水の他に防火用水としての役目もあるので、通年、水を流していなくてはなりません。
そこで、「乗附緑地」の東端から、昔の「横トンネル」を利用して、もう一度「田村隧道」に戻しているとのことでした。
「田村隧道」は、生きていたのです!
この丘陵の地下をずーっと貫いてきて、この辺りから道路の下を横断して、「いわんばな」の下へ抜けています。
←残土の処理場にしか見えない、現在の「いわんばな」。
昔の写真と比較してみましょう。
「金ヶ崎用水の歴史」で「雨ごいの碑」とよぶ石碑は、昭和二十六年(1951)に建立されたもので、「戸隠山九頭竜大権現」と刻まれていました。
どちらかというと、「雨ごい」よりも「川鎮め」を祈ったように思えるのですが・・・。
「いわんばな」の上から下を見ると、「田村隧道完成記念碑」の向こうに、隧道を抜けた「金ヶ崎用水」の流れが見えます。
戦後間もない昭和二十一年(1946)、私財を投じて全長500mを超える隧道を掘った偉人が高崎にいたのです。
田村今朝吉氏を、忘れないようにしたいものです。
より大きな地図で 金ヶ崎用水と田村隧道 を表示
ネットや文献にかろうじて名前は出てくるものの、地図で示されたものは見つからなかったのです。
そこで、「金ヶ崎用水」を管理している西部土地改良区を訪ねてみました。
たまたま居合わせたご年配の男性が「田村隧道」の場所をご存知だということで、案内までして下さいました。
「この水路の延長なんだいね。」という、最近造られたように見える水路には、数cmのたまり水があるだけでした。
「田村隧道は、今は使われてないんですか?」と聞くと、「素掘りで、はぁ、崩れちゃってるから。」というお話しでした。
「隧道の入り口も塞いじゃってるんですかね。」と言うと、「あるとすりゃ、この先だけどね。」と丘陵に近いところまで行ってみました。
草に覆われていて写真ではよく分かりませんが、ゴミ除けの柵の向こうにコンクリート管の丸い穴は確認できました。→
←「金ヶ崎用水の歴史」によると隧道の入り口はこんな感じで、高さ1.1m、幅1.4mくらいだったそうですが、そういう穴はありませんでした。
隧道が使われてないとすると、やたら人が入れないように、塞いでしまったのかも知れません。
では、現在「金ヶ崎用水」の水は、どのような経路で流れているのでしょうか。
改めて、「金ヶ崎用水」の取水口から、水路を辿ってみました。
←乗附・鼻高線に沿って、東へ進みます。
高崎市清掃管理事務所の信号を越えたところに、水門がありました。→
←道路の反対側へ行ってみると、草に覆われた水路が、「田村隧道」入口だった辺りへ向かって一直線に伸びています。
さっきの水門が、隧道への取水口だったのでしょう。
「金ヶ崎用水」の本流は、水門の脇をすり抜けるようにして「乗附緑地」へ向かいます。
緑地内に入った水路は暗渠となり、東駐車場の四角い桝に流れ込んでいます。→
不思議なのは、ここからです。
東駐車場の桝から先、水路らしきものが見当たらないのです。
歩道の下を通っているのかとも思いましたが、それもありません。
わざわざ車道の下を水路にするのも不自然です。
いったいどうなっているんだ、と桝の中を覗きこんでみると、ここで直角に曲がって、円筒形のコンクリート管へ流れ込んでいるではありませんか。
じゃ、道路を横断した先に暗渠があるのかと思い行ってみましたが、それらしきものは見当たりません。
はて・・・?
あっ!ぼっとかして!
(上州弁:もしかしての意)
ひらめきました。
「金ヶ崎用水の歴史」に書かれていた「横トンネル」のことです。
ここから「田村隧道」に流し込んでるんじゃないか!
そう思ったら、もう矢も楯もたまりません。
三が日の明けるのを待ちかねるようにして西部土地改良区にお電話し、そのことを確認しました。
事務員の方がすぐ連絡をとって下さって、役員をされているという方からお電話を頂きました。
その方は72歳と仰っていましたが、さらに先輩の方に聞いて下さったそうです。
お話によると、素掘りの「田村隧道」はところどころ崩れてしまい、昭和五十年頃に建設された乗附・鼻高線の道路工事の際に水路を変更して、「田村隧道」入口からの通水はしなくなったとのことでした。
しかし、その付近にある田畑への給水のために水門を設け、田の時期だけ水を流し、その余り水は旧「田村隧道」へ排水しているのだそうです。
「金ヶ崎用水」は、農業用水の他に防火用水としての役目もあるので、通年、水を流していなくてはなりません。
そこで、「乗附緑地」の東端から、昔の「横トンネル」を利用して、もう一度「田村隧道」に戻しているとのことでした。
「田村隧道」は、生きていたのです!
この丘陵の地下をずーっと貫いてきて、この辺りから道路の下を横断して、「いわんばな」の下へ抜けています。
←残土の処理場にしか見えない、現在の「いわんばな」。
昔の写真と比較してみましょう。
「金ヶ崎用水の歴史」で「雨ごいの碑」とよぶ石碑は、昭和二十六年(1951)に建立されたもので、「戸隠山九頭竜大権現」と刻まれていました。
どちらかというと、「雨ごい」よりも「川鎮め」を祈ったように思えるのですが・・・。
「いわんばな」の上から下を見ると、「田村隧道完成記念碑」の向こうに、隧道を抜けた「金ヶ崎用水」の流れが見えます。
戦後間もない昭和二十一年(1946)、私財を投じて全長500mを超える隧道を掘った偉人が高崎にいたのです。
田村今朝吉氏を、忘れないようにしたいものです。
「幻の田村隧道」(完)
【「金ヶ崎用水」と「田村隧道」関連地図】
より大きな地図で 金ヶ崎用水と田村隧道 を表示