2012年12月16日

小さな高崎展 in 高崎図書館(2)

高崎中央図書館で、12月27日まで行っている「高崎の絵葉書&パンフレット」展。
こんなパンフレットが展示されていました。
            ↓
小さな高崎展 in 高崎図書館(2)

どうです、今でもあったら楽しそうじゃありませんか。

大飛行塔お猿の列車世界村地球館、動物園には猿が島象の高子小劇場昆虫館、当時としては珍しかったであろうボブスレーなんてのもあります。
面白いものなら何でも取り込んでやれ、人が喜びそうなものなら何でもやってやれ、とにかく高崎に人をたくさん呼び込むんだ!
そういう意気込みが、ひしひしと伝わってきます。

小さな高崎展 in 高崎図書館(2)

昭和二十七年(1952)の高崎線が全面電化となった年です。
それを活かして観光都市高崎を全国に宣伝しようと、高崎経済人たちを中心に計画されたのが、観音山一帯を会場とした「新日本高崎子ども博覧会」でした。
50日間の会期中に訪れた人は50万人を超え、収入は4200万円と、大盛況の内に幕を閉じました。

その会場をそのまま使って市営遊園地として営業したのが、このパンフレットの「高崎観音山遊園地」です。
昭和三十六年(1961)上信電鉄が営業を引き継いで「高崎フェアリーランド」となり、博覧会施設のほとんどはこのとき新しい遊園施設に変わりました。
昭和四十四年(1969)には「流れるプール」を造り、名前も「カッパピア」と変わりましたが、その後入場者は減少していき、ついに平成十五年(2003)閉園となってしまいます。

懐かしくも物悲しい、閉園直前の「カッパピア」園内を写真入りで紹介しているHPがありましたので、ご覧下さい。

華々しく登場した高崎の大遊園地は、50年という時の流れに押し流されて消えていきました。
人々の娯楽が多様化したためだという見方もありますが、私は昭和40年代後半から始まる、群馬県の急激なマイカーブームで、手軽に遠くへ行けるようになった影響が大きかったんだろうなぁと考えます。

話は変わりますが、「商工たかさき」2012年6月号掲載の「たかさき古今東西見聞一報」に、こんな一文があります。
『家族旅行の途中で高崎駅にいます。町なかで子どもを遊ばせられるところはありますか。』
平日、当所にあった問合せに、改めて高崎の町にそうした場所が少ないことを痛感した。」

さらに、こうも述べています。
大人一人の集客は1であるが、子どもが行きたがれば、親・家族も一緒に出掛ける。
ひとつの集客が2倍にも3倍にもなる。
単純な図式であるが、このことが町の賑わいの鍵になりそうだ。」

まったくもって、同感であります。

再び市の所有地となった「カッパピア」跡地は、現在、自然公園とすべく整備中です。
再びここに家族が集い、子どもたちの笑い声が蘇り、市内外から多くの人が観音山丘陵を訪れる日が来ることを、心から願うものであります。

小さな高崎展 in 高崎図書館(2)ここに、月刊誌「上州路」No.104に掲載された、昭和六年(1931)関東日日新聞社発行「大高崎建設論」なるものの抜粋があります。

白衣大観音が建立される5年前、すでに多くの人が観音山に大公園を造れと言っていたのです。

その目的も、市民の慰安をはじめ、高崎愛の惹起、東京人の誘引、日光や善光寺詣で客の誘引と、実に大きな構想を抱いていたことが分かります。

近年ともすれば、内向きの町づくりやイベントに目が向きがちな高崎ですが、今こそ先人に倣って、大風呂敷と言われるくらい外に目を向けた大構想に、夢を馳せてはいかがなものでありましょうか。





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Posted by 迷道院高崎 at 08:59
Comments(8)◆高崎雑感
この記事へのコメント
高崎観音山遊園地の歴史が良くわかりました。

それに、昭和二十七年(1952)の高崎線が全面電化した事も、初めて知りました、
父と本庄から高崎線で東京に
行った際、蒸気機関車に乗った記憶があります
車窓に、中曽根氏の首相は、「国民投票で」の
看板が意味は判りませんでしたが、有ったのを
記憶しています。

問題の町なかで子どもを遊ばせられる所の問題は、高崎は高速道、新幹線他鉄道も県内で
最高の条件を首長自ら先頭に立ち行政主導で
進めて行けば良いのでは、企業主導だと
企業の盛衰の影響を受け高崎の特徴が
デネーカンネー
Posted by wasada49  at 2012年12月16日 11:31
>wasada49さん

中曽根さんの持論でしたね、「首相公選論」。

世の中がどう変わっても、子どもが面白がるものはあまり変わってないように思います。
今の子は電子ゲームが好きそうに見えますが、野外へ連れて行けば昔の子どもと同じように、飛んだり跳ねたりぶら下がったりして、楽しそうに遊びます。

行政であれ民間であれ、大人が子どものように、何にでも好奇心旺盛になることが必要なんじゃないでしょうか。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2012年12月16日 21:02
昭和27年と昭和6年。どうも地域にとってターニングポイントになる年というのがあるみたいですね。「國道9號」の記事の時にも昭和6年が高崎にとって重要な年になっていました。


観音山にしても群馬の森にしても絹の里にしても、駅から親子で楽しめる施設への公共交通が弱いのが難点ですね。
Posted by ふれあい街歩き  at 2012年12月16日 21:49
>ふれあい街歩きさん

なるほど、ターニングポイントの年ですか。
後から思うとあの時が…、というのはいつの時代にもありそうですね。

たしかに、公共交通は弱いです。
私などもマイカーに慣れてしまうと、待つということができなくなって(^^ゞ
このループを、どうやってちょん切ればいいのか・・・。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2012年12月17日 09:35
昭和44年の初夏だったかな?
大学にカッパピアの建設工事の
アルバイトの募集がありました。
応募して夜中、
「流れるプール」の突貫工事に
行ったことを思い出しました。
開園間近だったので
人手が必要だったのでしょう。
時は移り、
そのカッパピアも跡形もなく消えて
しまいました。
「奢れるものも久しからず
 ただ春の夢の・・・」ですね。
Posted by いちじん  at 2012年12月28日 18:20
>いちじんさん

へーっ!
流れるプールには、いちじんさんの手が加わっていたんですね。

私は、カッパピアよりもフェアリーランドよりも、その前の動物園や昆虫館の記憶の方が鮮明なんですよ。
観音山がむかし海の底だったなんていう、地質展示館もありましたよね。

父や母に連れられて観音山へ行くだけで、充分楽しかったんですけどねぇ。
人間の欲求は、果てしないです。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2012年12月28日 19:51
接写をされているようですが、高崎市立図書館内は撮影禁止だと思うのですが撮影及びblogへの掲載は許可貰ってるのでしょうか?
Posted by オブザーバー  at 2013年04月29日 13:12
>オブザーバー様

図書館員の方の許可を得て、立会いの下で撮影させて頂きました。
blog掲載についても、その時にお話ししております。

ご心配頂き、ありがとうございました。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2013年04月29日 14:09
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