高崎中央図書館の片隅で、「高崎の絵葉書&パンフレット」展が行われています。
図書館の未整理資料だということで、普段目にすることのない珍しいものがありました。
お願いして、写真に撮らせて頂きました。
その中の一つに、高崎市街地の航空写真絵葉書があります。
写真そのものは写真集などで見たことがあるのですが、絵葉書は初めて見ました。
封筒に書かれている、「高崎航空普及会」とか、「高崎号」という名前をご存知の方は、少ないかも知れません。
今でこそ、全国にたくさんの地方飛行場がありますが、高崎がその先駆者だったということも、あまり知られていません。
高崎商工会議所の総会で、「交通の要衝である高崎に飛行場を設置し、定期航空路をも開設したい。」という要望を可決したのは、昭和七年(1932)のことです。
来る航空時代を予測してのことですが、今聞いても、ホラ話か夢物語の類に聞こえます。
でも、当時の高崎の経済人は本気でした。
実にしたたかに、そしてスピーディに事を進めていきます。
昭和八年(1933)には、早くも「飛行場設置調査委員会」が組織されます。
委員長は、当時すでに洞窟観音の建設を進めていた、山田徳蔵氏48歳です。
飛行場の設置目的を、「国防ならびに産業上の見地から、パイロットの養成などを図る。」として、軍部に飛行機の払い下げを交渉するとともに、乗附町にあった練兵場を飛行場として借り受けます。
一方、市民の航空思想啓蒙を図って賛同と協力を得るために、高崎市長・土屋全次氏を会長として、「高崎航空普及会」を設立します。
その年の11月14日には、立川飛行場から山田徳蔵氏を同乗させた一機の複葉飛行機が、高崎市上空を旋回して5万枚のビラを撒き、高崎飛行場に着陸します。
同18日には、浜松飛行場からもう一機がやってきます。
11月19,20日といえば、昭和四年(1929)から始まった高崎名物「ゑびす講」ですが、二機の飛行機は終日祝賀宣伝飛行を行ったということです。
二機の飛行機には、「第一高崎号」「第二高崎号」という名前が付けられ、その命名式には数千人の観衆が集まったといいます。
その時の、高崎商工会議所会頭・山田昌吉氏の祝辞です。
そうやって夢を実現させてしまった訳ですが、それに留まらないのが、当時の高崎経済人のしたたかなところです。
ちゃっかりと、高崎市上空の観光遊覧飛行ビジネスもやってのけています。
また、昭和十年(1935)の大水害には、いち早く「高崎号」を飛ばし、空からの被害状況調査、救援活動にあたるなど、幅広い活躍をしています。
戦争が勃発せず、そのまま民間航空事業として続いていたら、高崎はどのような町になっていたのでしょうか。
あれ?
たった2枚の絵ハガキだけで、こんなに長っ話をしてしまいました。
続きは、また次回にいたしますが、どうぞ皆様も高崎中央図書館へ行って、展示をご覧になって下さい。
他にも、いろいろ興味深い資料が展示されていますよ。
12月27日までです。
図書館の未整理資料だということで、普段目にすることのない珍しいものがありました。
お願いして、写真に撮らせて頂きました。
その中の一つに、高崎市街地の航空写真絵葉書があります。
写真そのものは写真集などで見たことがあるのですが、絵葉書は初めて見ました。
封筒に書かれている、「高崎航空普及会」とか、「高崎号」という名前をご存知の方は、少ないかも知れません。
今でこそ、全国にたくさんの地方飛行場がありますが、高崎がその先駆者だったということも、あまり知られていません。
高崎商工会議所の総会で、「交通の要衝である高崎に飛行場を設置し、定期航空路をも開設したい。」という要望を可決したのは、昭和七年(1932)のことです。
来る航空時代を予測してのことですが、今聞いても、ホラ話か夢物語の類に聞こえます。
でも、当時の高崎の経済人は本気でした。
実にしたたかに、そしてスピーディに事を進めていきます。
昭和八年(1933)には、早くも「飛行場設置調査委員会」が組織されます。
委員長は、当時すでに洞窟観音の建設を進めていた、山田徳蔵氏48歳です。
飛行場の設置目的を、「国防ならびに産業上の見地から、パイロットの養成などを図る。」として、軍部に飛行機の払い下げを交渉するとともに、乗附町にあった練兵場を飛行場として借り受けます。
一方、市民の航空思想啓蒙を図って賛同と協力を得るために、高崎市長・土屋全次氏を会長として、「高崎航空普及会」を設立します。
その年の11月14日には、立川飛行場から山田徳蔵氏を同乗させた一機の複葉飛行機が、高崎市上空を旋回して5万枚のビラを撒き、高崎飛行場に着陸します。
同18日には、浜松飛行場からもう一機がやってきます。
11月19,20日といえば、昭和四年(1929)から始まった高崎名物「ゑびす講」ですが、二機の飛行機は終日祝賀宣伝飛行を行ったということです。
二機の飛行機には、「第一高崎号」「第二高崎号」という名前が付けられ、その命名式には数千人の観衆が集まったといいます。
その時の、高崎商工会議所会頭・山田昌吉氏の祝辞です。
「 | 地方市街地にして飛行場を有し、飛行機を所有し、以て航空界に貢献せるもの全国にその類を聞かず。(略) |
将来本市が航空都市として産業交通上、国防上枢要なる地位を占める。」 |
そうやって夢を実現させてしまった訳ですが、それに留まらないのが、当時の高崎経済人のしたたかなところです。
ちゃっかりと、高崎市上空の観光遊覧飛行ビジネスもやってのけています。
また、昭和十年(1935)の大水害には、いち早く「高崎号」を飛ばし、空からの被害状況調査、救援活動にあたるなど、幅広い活躍をしています。
戦争が勃発せず、そのまま民間航空事業として続いていたら、高崎はどのような町になっていたのでしょうか。
あれ?
たった2枚の絵ハガキだけで、こんなに長っ話をしてしまいました。
続きは、また次回にいたしますが、どうぞ皆様も高崎中央図書館へ行って、展示をご覧になって下さい。
他にも、いろいろ興味深い資料が展示されていますよ。
12月27日までです。
(参考図書:「新編高崎市史」)