左に折れて嘉多町を
尚も進めば柳川町
戸毎にかがやく軒提燈
往来の人も織る如し
尚も進めば柳川町
戸毎にかがやく軒提燈
往来の人も織る如し
新紺屋町を左に折れると「嘉多町」です。
看板は「ゑびす通り」となっています。
この通りの突き当りにある「高崎神社」に、「ゑびす様」を祀る「美保大國神社」があって、かつては11月20日の「ゑびす講」にはこの道端に多くの露天商が並び、沢山の参詣者が行き来した通りです。
「嘉多町」は「片町」で、江戸時代には通りの北側だけに藩の組屋敷があったそうです。
武士以外の人びとが住めるようになったのは明和八年(1771)からです。(田島桂男氏著「高崎の地名」)
尚も進んだ嘉多町交差点から南の通りは、「柳川町」の本通りである「柳通り」です。
左角の車が止まっている所にはむかし交番がありました。
明治四十三年(1910)の「群馬県営業便覧」を見ると、当時は右角にあったんですね。
お堀端の方から来ると、「柳通り」はここで突き当りになってました。
本町まで抜けたのは、大正の初め頃だったようです。
その突き当たった所に「薬種商 石川實之助」って書いてあって、その右隣に「小間物商 志倉商店」というのがありますが、ここが俳人・志倉西馬の養家です。
その相向いが、すき焼きで有名だった牛肉店「信田」(のぶた)です。
歴史のある店でしたが、4年前に建物も解体されて現在は駐車場になってしまいました。
駐車場になったおかげで、明治期創業の老舗小料理店「前田屋」がゑびす通りから見えるようになりました。
夜はこんな感じ。
明治四十三年(1910)発行の「高崎案内」に、「前田屋」の紹介が載っています。
「 | 嘉多町通りに在り、屈指の鰻屋なり。 華客(とくい)も澤山ありて信用厚き老舗なりしも、近頃は少し客足の減ぜしやとの評判あれども、なかなかの繁昌なり。」 |
「柳川町」はけっこう広い町です。
「柳通り」から東側一帯がいわゆる花街、飲み屋街です。
昭和二年(1927)発行の「高崎市史 上巻」に、「柳川町」の沿革が載っています。
「 | 明治初年迄ハ、今ノ本通リ(柳通り)以東ハ卑濕(ひしつ:土地が低くてじめじめしている)ノ地ニシテ、蘆葦(ろい:アシ・ヨシ)雑草叢生シ、加之(しかのみならず)溜潦(りゅうろう:水たまり)所々ニ点在シ、道路ノ如キ固(もと)ヨリナク、實ニ白晝(白昼)狐狸躍ルノ寂寞(せきばく:ひっそりとして寂しい)地ナリ、元城ノ防禦地帯タルガ爲ナリ、之レヲ北郭ト偁セリ、 |
明治六年三月四日、是レニ柳川町ト命名シタリ、 | |
而シテ彼ノ坎地(かんち:低い土地)ハ、明治五年六月、田中祭八ナルモノ、家作ノ許可ヲ得タリ、今ノ電氣館以北五百七十五坪ナリ、爾来次第ニ人家ノ建築アリ、以テ現時ノ如ク、料理店絃妓(げんぎ:芸者)ノ住ム所トナリ、通路狭隘、人家櫛比シ、日夜嬌音絃聲斷ヘズ、粉黛(ふんたい:化粧)ノ嬌姿ト、遊冶(ゆうや:遊びふける)ノ粹客ト、往來頻繁、昔日ノ狐狸去ッテ跡ナク、眞ニ隔世ノ感アリ。」 |
その土地は、もと高崎藩の「馬場」だったところだそうです。(更正高崎旧事記)
現在も、その形がほぼそのまま残っています。
「馬場」が「バー場」になったという訳で・・・。
また「柳川町」と言えば「芸者さん」です。
大正二年(1913)発行の栗田暁湖著「前橋と高崎」の中に、「高崎花柳界の沿革と変遷」という項があります。
「 | 高崎に初めて藝妓の出來たのは、實に此明治の二年高崎市に常設芝居が許可された時が初めで、二名の芸者が東京から輸入されたのに初まって居る。 |
四十五年を經過した今日では三業、共同の兩見番(けんばん)に五十六名の藝妓と、十名の半玉とがあって、二百に近い白首(しらくび:酌婦)と共に花の高崎を彩り、紅灯緑酒の巷に三絃(しゃみ)の音〆(ねじめ)を緩めて、意氣地も張りも其方除け(そっちのけ)の極めて當世式に御繁昌をして御座る。」 |
「三業見番」というのは、料理屋・芸者屋・待合の三業者が集まってつくる組合事務所のことで、私が子どもの頃にまだありました。憶えてますここ。
(「高崎のサービス業と花街史」昭和42年根岸省三氏編)
大人は、「(芸者)置き屋」って言ってましたね。
前を通ると、いつも三味線の音が聞こえて、門の前に「輪タク」が止まっていました。
「戸毎にかがやく軒提燈 往来の人も織る如し」も、今は昔の物語。
柳川町がまだ元気だった頃の地図があります。
懐かしく思う方も多いことでしょう。
じっくり味わってくださいな。