更に踵(きびす)を廻らして
畦道(あぜし)東に辿り行き
頼政神社伏しをがみ
遊ぶは高崎公園地
畦道(あぜし)東に辿り行き
頼政神社伏しをがみ
遊ぶは高崎公園地
「観音山」から踵を廻らして東に辿る畦道は、今の「観音道路」ではなく旧道です。
旧道については、過去記事をご覧ください。
「聖石橋」まで来ると、向こう岸左手に「頼政神社」の森が見えます。
その「頼政神社」を伏し拝んで、「高崎公園」に入ります。
松柏芝生に生ひ茂り
夏はすずみに冬は雪
いとどさやけき碓氷川
河鹿ほたるの名所なり
「高崎公園」の成り立ちは、昭和二年(1927)発行の「高崎市史 下巻」にこう書いてあります。
「 | 抑々(そもそも)當公園設置ノ起原ハ、明治九年附近ノ有志者相議シ、大染寺ノ廃墟及ビ其庭園ヲ利用シ、多少ノ花卉(かき)ヲ寄附シ設置セルモ千餘坪ノミ、」 |
「大染寺」については、過去記事をご覧ください。
公園の烏川側に、「大染寺」ゆかりの「高崎八景」という石板が設置されています。
昭和四十三年(1968)発行「高崎市史 第三巻」掲載の「高崎寿奈子」(たかさきすなご)(宝暦五年(1755)西田美英著)に、こう記載されています。
「 | 享保(1716~1735)の始めの頃、城中風雅の士、此山より見る所の八景詩歌発句を集め、一軸となして大染寺に納む。 |
所謂八景は 烏川渡舟 浅間暮雪 清水晩鐘 半田夕照 石原晴嵐 佐野落雁 古塁夜雨 少林秋月 是なり。」 |
残念ながら、この八景を描いた画幅は行方知れずになっているそうです。
ただ、この「高崎八景」、天保十年(1839)につくられた別バージョンがあるんですね。
「群馬風土記 通巻26号」に、俳山亭主人氏寄稿の「上毛老談紀」という一文があり、そこに氏が所蔵する「高崎八景」の画幅が掲載されていました。
それぞれの画題は享保版と微妙に異なっています。
なお、天保版の「鷹城」とは「高崎城」のことだそうです。
さて公園の話に戻しますが、明治九年に整備はしたものの、公園としてはちょっと見劣りするものだったようです。
再び「高崎市史 下巻」。
「 | 園ノ側ニ監獄アルノミナラズ、徒ラニ(いたずらに:無駄に)児童ノ遊戯場タルニ止マレリ、」 |
そこで、園地の改修を試みるのですが、
「 | 明治十九年改修ヲ加ヘシモ見ルニ足ラズ、加之(これに加え)陸軍作業場ヲ旁ニ置カレ、其南部ハ所謂(いわゆる)南郭(みなみくるわ)ノ人家アリ」 |
しかし、明治三十三年(1900)にわかに公園の整備が加速します。
「 | 明治三十三年市制施行ニ至リ始メテ市會ノ議ニ上リ、爾来次第に擴張ヲ策シ、三十九年二月監獄署ノ移轉ヲ始メトシ、陸軍作業所ヲ乘附ノ地ト交換シ、人家ヲ移轉セシメ、小澤奎次郎ニ設計ヲ囑シ着々工事ヲ起セリ」 |
「高崎唱歌」に詠われたのはこの頃のことなんでしょうが、その後、あることがきっかけで公園の整備はさらに進みます。
「 | 時恰(ときあたか)モ明治四十三年、一府十四縣、聯合品評會ヲ本縣ニ開カレ本市ニ教育部ヲ置カルゝニ際シ、急速ニ工事ノ進行ヲ見、加フルニ本市多年ノ計畫タル水道工事モ完成シ、剰水ヲ以テ池中一大噴水ヲ設ク、 |
池畔ニ樹竹花卉ヲ点綴(てんてい:散らばせ)シ、怪石奇岩ヲ配シ天然ノ美ト、人工ノ妙ト、相俟ツ(あいまつ:互いに作用しあって)ヲ始メテ本市ノ公園トシテ耻(はじ)ザルニ至レリ」 |
ということで、ようやく高崎市として恥ずかしくない公園となった訳です。
でも、まだ木々が幼くてちょっと寂しい感じ。
噴水も、まだ鶴の像がありません。
鶴の像については、「新編高崎市史 通史編4」にこんな記述があります。
「 | 大正八年(1919)六月、上野動物園から寄贈された丹頂鶴の一番(ひとつがい)を、市は高崎公園で飼養することにした。 |
また、泉水を設け、中に岩山を築いた鶴の像は、井上保三郎の寄附によるものであった。」 |
今は木々も大きくなりました。
「高崎市史 下巻」には、こんな記述もあります。
「 | 池水ノ流末ヲ暗渠ニ導キ、崖上ヨリ崖下ニ飛瀑トナリ潨然(そうぜん:音を立てて)之ニ懸ル、又池中ニ入リ其流末淙々(そうそう:淀みなく)烏川ニ入ル」 |
大正三年(1914)の地図には、その二つの池が描かれています。
滝は二段になっていて、「雌雄の滝」という名が付けられていました。
崖下の公園は「下公園」と呼ばれていました。
戦後「下公園」は国道で削られ、「雌雄の滝」は「比翼連理の滝」となりました。
もう少し流量を増やしたいですね。
さて、公園にて少し遊び過ぎました。
今回は、この辺で。