
「大染寺」は高崎城主・松平家の私的祈願寺でしたが、宝永七年(1710)に松平輝貞に代わって間部詮房(まなべ・あきふさ)が高崎城に入ると、寺は無住のまま放置されてしまいます。
一方、高崎城内の三の丸には「興禅寺」(現在、下横町)がありましたが、修行僧や檀家の人が城内に大勢出入りするので、寺側も城側も具合が悪かったようです。
そこで、「興禅寺」を「大染寺」跡に移転する計画が持ち上がりますが、諸々の事情で移転は実行されませんでした。
それなら、「大染寺」という由緒ある名前を譲って欲しいと言ってきたのが「覚法寺」(嘉多町)ですが、この願いも却下されました。
そうこうしている内に、間部詮房が越後村上に移封となり、再び松平輝貞が城主になって、「大染寺」は息を吹き返します。
ところが、明治四年(1929)の廃藩置県により高崎城が廃城になると、再び「大染寺」に不幸が訪れます。
明治七年(1874)、熊谷の「養平寺」に合併されて、ついに廃寺となってしまいます。
では、寺の建物は取り壊してしまったのかというと、実はこれが残っているのです。

言われてみれば、なかなか風格のある建物です。

しかし、ここに「大染寺」の本堂がやってくるまでには、これまた「福田寺」の涙ぐましい物語があるのです。
この「福田寺」、とにかくよく火災に遭う寺で、明和四年(1767)に1回、安政年間(1854~1860)に3回焼失したといいます。
当時の寺というのは、ご本尊を焼失したら廃寺になるという決まりだったようですが、「福田寺」は最期の火災でとうとうご本尊の大日如来像を焼失してしまったようなのです。

そして明治十三年(1880)、廃寺となった「大染寺」の本堂を買い受けて移築したという訳です。
改めて、新しい大日如来像をご本尊として迎えたのは良かったのですが、借り物の白衣観音像は元に返さず、そのまま脇士として祀っていました。
すると、白衣観音のあった土地を畑にした人が、次々と災難に見舞われるようになりました。

下大類の白衣観音堂は、内山信次氏が選定した「新選高崎三十三観音」の二十二番札所となっています。
高崎公園には、「大染寺」境内にあった「はくもくれん」の大木が、群馬県天然記念物に指定されて残っています。
(参考図書:「新編高崎市史 通史編」「同資料編 社寺」)
【福田寺】
【下大類 白衣観音堂】