公園出でて宮元町
堀べに沿ふて右左
池水澄みて魚躍る
大手前の広小路
堀べに沿ふて右左
池水澄みて魚躍る
大手前の広小路
「高崎公園」からお堀に沿って南北に長いのが、「宮元町」です。
明治四年(1871)にできた町で、宮(頼政神社)の元にある町ということです。
それまでは「奉行所」やその役宅、領内の米の作柄や年貢をみたてる米見役人が住む「米見町」(こめみちょう)、代官の役宅がある「代官町」という、いわば行政街でした。
明治維新で、南の「代官町」は江戸から引き揚げてきた藩士を住まわせる「南郭」になりました。
堀の土塁を切り通して付けた、公園から高崎市役所前を通ってシンフォニーロードへ抜ける道です。
私が小学生の頃は、たしか土塁はまだつながってたように思います。
土塁の上に胡桃の木が何本かあって、落ちた実を拾いに土塁の上に登ったりしてました。
昭和三十六年(1961)の住宅案内図ではもう道が抜けていますので、土塁が切られたのは私が中学生の頃らしいです。
そうそう、私、5歳くらいの時、宮元町に住んでたことがあるんです。
上の住宅案内図で●が付いてる辺りです。
写真右側の青い看板が建ってる辺りだと思うんですけど、当時は行き止まりの狭い路地でした。
中島さんというお宅に間借りしてたんです。
写真はたぶん、そこのお庭で撮ったものだと思います。
庭にニワトリがいましてね。
生みたての卵って温かいんだって初めて知りました。
初めてと言えば、手押しポンプの井戸も初めてでした。
5歳の私が顔を洗うのは至難の業でして、水を出して手にすくおうとすると止まっちゃうんですから。何回やっても。
まるでチャップリンの無声映画か、ドリフのコントです。
中島のおじさんには、とても良くしてもらいました。
おじさんは、前橋の「片原饅頭」に勤めてて、時々「片原饅頭」(余りものだったのかな?)を持ってきてくれました。
もう冷えて硬くなってましたが、焼いて食べるとすごく美味しかったです。
また、私が文字を読めることを知って、「こども新聞」も取ってくれました。
一年くらいの間借り生活でしたが、我が家の暮らしは困窮してました。
その頃の母との思い出を綴った過去記事がありますけどね。
あぁ、すっかり感傷に浸ってしまいました。
切り通しの先に「税務署」とその職員の社宅がありました。
現在の市役所前広場の所ですね。
15連隊時代は、「将校集会所」と「偕行社※」(かいこうしゃ)が置かれていました。
※ | 「偕行社」 旧陸軍将校の親睦を目的とする団体で、後に共済組合的存在として軍服など軍装品の販売も行っていた。 |
その前は、高崎藩主・大河内家の別邸があったそうです。
右下におしゃれな石灯籠が立っていますが、これの一部が市役所前広場に残っています。
木も、大河内家別邸時代のものが何本も残ってるそうです。
それぞれに、説明看板があるといいですね。
さて、だいぶ長くなりましたので、続きは次回ということに。