「聖石橋」からの「観音道路」が出来る前、昭和六年(1931)の石原地区の地図です。
当時、「聖石橋」から「観音山」へ行くには、赤色のルートを通っていましたが、現在のどの道なのか、見当がつかないかも知れませんね。
「観音道路」(橙色)を描き込んでみると、こうなります。
「観音道路」は昭和七年(1932)に開通していますので、昭和九年(1934)の地図には記載されています。
現在は「観音道路」北側の区画整理が進み、昔の道とは少し変わってしまっています。
では、なるべく昔の道を辿りながら歩いてみましょう。
前回お話ししたように、「七士殉職供養塔」の所を右斜め、片岡小学校に沿って進みます。
「七士殉職供養塔」の背面には、「髙﨑市民一同」と刻まれています。
市民の寄付で建てたのでしょうか、それとも市民が納めた税金で建てたという意味なのでしょうか。
前面には、七士が殉職した経緯が刻まれ、その前にはいくつもの穴が開いた石の香台が備えられています。
建立後78年経た今なお、お賽銭やお供物を手向ける方があり、この日は、お賽銭を使って買ったという菊の花が供えられていました。
明治七年(1874)からの、歴史ある「片岡小学校」です。

校庭に沿って進み、変則四叉路を左前方へ入ります。
150mほど行って、「長谷川医院」の角を左に曲がると→

←「観音道路」に出ます。
右前方には、大きな椋(むく)の古木が聳え、その根元には「片岡歴史之碑」が建っています。
ちょうどこの場所が、「観音道路」によって旧道が分断された地点です。
「観音道路」ができる前、ここには「峯下の用水堀」と呼ばれる、「金ヶ崎用水」の水路が通っていて、旧道にはその水路を跨ぐ「旭橋」という石橋が架けられていました。
「観音道路」開通により水路は暗渠となり、「旭橋」も撤去されましたが、その用材は椋の木を取り囲むように置かれ、今もその名を留めています。
この地区の人々の、郷土を愛する心が伝わってきます。
さて、旧道は椋の木から左へ入る細道です。
この続きは、次回といたしましょう。
当時、「聖石橋」から「観音山」へ行くには、赤色のルートを通っていましたが、現在のどの道なのか、見当がつかないかも知れませんね。
「観音道路」(橙色)を描き込んでみると、こうなります。
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「観音道路」は昭和七年(1932)に開通していますので、昭和九年(1934)の地図には記載されています。
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現在は「観音道路」北側の区画整理が進み、昔の道とは少し変わってしまっています。
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では、なるべく昔の道を辿りながら歩いてみましょう。

「七士殉職供養塔」の背面には、「髙﨑市民一同」と刻まれています。
市民の寄付で建てたのでしょうか、それとも市民が納めた税金で建てたという意味なのでしょうか。

建立後78年経た今なお、お賽銭やお供物を手向ける方があり、この日は、お賽銭を使って買ったという菊の花が供えられていました。


校庭に沿って進み、変則四叉路を左前方へ入ります。


←「観音道路」に出ます。

ちょうどこの場所が、「観音道路」によって旧道が分断された地点です。
「観音道路」ができる前、ここには「峯下の用水堀」と呼ばれる、「金ヶ崎用水」の水路が通っていて、旧道にはその水路を跨ぐ「旭橋」という石橋が架けられていました。

この地区の人々の、郷土を愛する心が伝わってきます。
さて、旧道は椋の木から左へ入る細道です。
この続きは、次回といたしましょう。