2021年04月25日

史跡看板散歩-番外編 天上橋

菖蒲沢集落の樋口さんに教えて頂いた、興味深い話。

樋口家のご先祖が菖蒲沢の地に移り住んだ時、そこは高台のために農業は天水に頼らざるを得なかったようです。
そこでご先祖は、滑川の源水を延々菖蒲沢まで水を引いてきたんだそうです。
以後その流域一帯の原野は田畑に姿を変え、集落も増えていったと言います。
そして取水した所の地名は、水を引いた樋口氏に因んで「樋ノ口」(といのくち)と呼ばれたのだということです。

「天上橋んとこに、まだ、その遺構が残ってると思うよ。」と言うので、行ってみることにしました。

「菖蒲沢入口」バス停の、ひとつ倉渕寄りが「天上橋」バス停です。
史跡看板散歩-番外編 天上橋

ただ、この辺に、そういう名前の橋が架かっている川はありません。
樋口秀次郎氏編著「榛名の地名辞典」には、こう書かれています。
『天上橋』の『天上』は、『天井』と同じで、高い所、上方を表わし、『橋』は『端』と同根語で『端』と『端』を渡したものを言い、道路や水路に用いられます。
『梅ノ木』の『天井橋』はその遺跡が現存していますが、中世末ごろ、『梅ノ木』や『菖蒲沢』の努力によって、飲料水、灌漑用として、滑川上流の水を『樋ノ口』から分水、延々と引水した用水堰の導水用の石橋のことです。」

天上に架けられた導水用の石橋が、「天上橋」だったんですね。(ただし、これには異論もあるようです。)

「樋ノ口」については、こう書かれています。
大字上室田の斉渡北原、斉渡南原、両庭、梅ノ木、和久谷等の地域を潤すために、滑川の上流『糠塚川』から分水、取水しているのが『斉渡堰』です。
この斉渡堰の取水口の樋から『樋ノ口』の地名は出ています。」

「天上橋」バス停のすぐそばを、「斉渡堰」の水が流れています。
史跡看板散歩-番外編 天上橋

上流へ行ってみました。
史跡看板散歩-番外編 天上橋

下流側を眺めると、小山の上に何やら石柱のようなものが見えます。
ん?あれが「天上橋」の遺構か?
史跡看板散歩-番外編 天上橋
史跡看板散歩-番外編 天上橋

小山に登ろうとしたら、ちょうど土地の所有者らしき方が軽トラでいらっしゃいました。
無断で私有地に入り込んだ上に、厚かましくも「天上橋」のことについてご存知ですかと尋ねる迷道院に快く接してくれたのは、梅の木集落の長壁(おさかべ)さんという方でした。
実に詳しいお話を聞かせて頂き、案内までして下さいました。

石柱はたしかに「天上橋」の遺構で、水を通していたパイプもまだ残っていたのです。
史跡看板散歩-番外編 天上橋

「向こうの白い花が咲いてる所に貯水槽があって、そこからパイプで引いてたんだ。」と仰います。
史跡看板散歩-番外編 天上橋

左の石垣が積んである部分が、その貯水槽の跡だそうです。
史跡看板散歩-番外編 天上橋

今は埋められて花壇になっています。
史跡看板散歩-番外編 天上橋
視線の先に、小山の上の石柱が見通せます。
あそこ迄パイプで渡していたんですね。

石柱から「菖蒲沢」集落方面を望んてみましょう。
前方の鉄塔が、「菖蒲沢」集落の西端です。
史跡看板散歩-番外編 天上橋
石柱から前方へ続く窪みがありますが、これも「天上橋」の遺構だそうです。

水はその窪みを通って、小山の先端にあった貯水槽に入り、そこから樋で道を跨いで「菖蒲沢」集落へ送られていた訳です。
史跡看板散歩-番外編 天上橋

国道の端に「天上橋」の遺構がもう一つあります。
史跡看板散歩-番外編 天上橋
国道を跨ぐ樋の支柱の残骸です。

支柱はもっとずっと背の高いものでしたが、「天上橋」が撤去される時に、倒れたら危険だということで根元から撤去したのだそうです。
史跡看板散歩-番外編 天上橋

さて、この支柱から「菖蒲沢」側まで樋が渡っていたとなると、距離にして50m強あります。
史跡看板散歩-番外編 天上橋
その間を支柱なしで渡すのはちょっと無理のように思います。

これには、国道になる前の、いわゆる「信州街道(草津街道)」の変遷の歴史が関係しているようです。
「室田町誌」から、拾い読みしてみましょう。
弘化四年(1847)に村民有志が相謀り西の方に新道を開くことにした。
すなはち今まで下室田より斉度を通って雨堤を経由して三ノ倉に通じていた道を変更して、宮谷戸を経て本庄を通り三ノ倉に行くようにした。
安政年間に洪水があり、烏川の周辺の田畑を流失したとき道を山よりに変更した。
この道は大森神社の前を通り、不動尊の上に移り、鳴沢から天上橋を経由して湯殿山の中腹を通って本庄に抜けたと思われる。」

正確な経路は分からないのですが、国土地理院の地図にここに出てくる地名が載っていますので、想像してみて下さい。
史跡看板散歩-番外編 天上橋

この道は、前回の「丸子稲荷大明神」の旧旧道と同じく山道で、人や馬が通れる程度の細い道だったと思います。
樋口さんのご先祖が架けたという樋は、この道の上を渡っていたのでしょう。

明治の後半になって、道は多少改修・拡幅されます。
その後明治二十四年(1891)大森神社を起点として三ノ倉に至る道を県費で改修完了した。(略)
その後、時々改修されたがなかなか思うようには良くならず、明治四十年(1907)には馬車などを通す必要から路面拡張の申請をしている。」

高崎-草津線が県道になったのは、大正八年(1919)の道路法発布の時です。
その頃はまだ舗装もされておらず、道幅もせいぜい馬車が通れる程度だった訳です。
梅の木長壁さんも、「昔の草津街道は、荷車が通るくらいの狭い道路だった。」と言っています。

その程度の道幅に架けられた「天上橋」は、木製の樋でした。
昭和十四年(1939)生まれの樋口さんは、小学生の頃、その木製の樋の中に入って、渡って遊んだことがあると言います。
樋の断面は幅、高さとも一尺(30cm)ほどで、所々樋の上にX形の筋交いで補強されてたそうです。

昭和の後半になって、ようやく県道が拡幅・舗装されます。
「榛名町誌 通史編下巻」に、こう書かれています。
高度経済成長により物流が活発になり、特にトラック輸送と自家用車が激増した。
これに対応する道路整備が必要となり、道路の拡幅と舗装工事が行われた。
昭和三十四年(1959)に町長、議長、地元代表が下室田地内の県道舗装化陳情のため県に出向いている。(略)
昭和四十四年(1969)八月に全国高等学校総合体育大会自転車道路競争中央大会群馬大会が行われ、大戸、倉渕から室田を通過し里見回りの全舗装されたコースでレースが行われた。」

樋口さんは、「50年くらい前に県会議員に陳情して、木製の樋から金属製の樋にした。」と言っていますから、ちょうど県道が拡幅された時期と合います。

県道が国道に格上げされたのは昭和五十七年(1982)、拡幅されたのは平成五年(1993)です。
長壁さんの記憶では、「天上橋」の樋を撤去したのは20数年前だそうですから、ちょうど国道が拡幅された頃です。
樋を架けた時も、撤去した時も、すべて村人たちの手で行ったそうです。

「菖蒲沢」側の高台も、昔は国道のすぐ際まで延びていたのだそうです。
史跡看板散歩-番外編 天上橋
もしかすると、草津街道が山道だった時は、梅の木菖蒲沢は尾根続きだったのかも知れませんね。

まだ謎も残る「天上橋」ですが、樋口さんと長壁さんのおかげで、だいぶイメージがつかめて参りました。
ありがとうございました。

そうそう、「天上橋」撤去後、「菖蒲沢」集落の水はどうなったのでしょう。
樋口さんにお聞きしました。
「斉渡簡易水道」の水が国道の下を横断してきているそうで、畑への水もその水を利用しているとのことでした。

「地名に歴史あり」の、「天上橋」でした。


【天上橋バス停】





同じカテゴリー(高崎市名所旧跡案内板)の記事画像
史跡看板散歩-番外編 剣磨石と立石
史跡看板散歩-番外編 権三(ごんぞう)石
史跡看板散歩-番外編 ゆるぎ石
史跡看板散歩-番外編 腹切り石
史跡看板散歩-番外編 イボ石
高崎市名所旧跡案内板map
同じカテゴリー(高崎市名所旧跡案内板)の記事
 史跡看板散歩-番外編 剣磨石と立石 (2022-05-07 06:00)
 史跡看板散歩-番外編 権三(ごんぞう)石 (2022-04-23 06:00)
 史跡看板散歩-番外編 ゆるぎ石 (2022-04-09 07:00)
 史跡看板散歩-番外編 腹切り石 (2022-03-26 06:00)
 史跡看板散歩-番外編 イボ石 (2022-03-12 07:00)
 高崎市名所旧跡案内板map (2022-03-05 07:00)

上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
史跡看板散歩-番外編 天上橋
    コメント(0)