「天上橋」の烏川対岸に、上里見町の間野(まの)地区があります。
「東間野」バス停から東へ50mほど行った所に「多胡神社」への入口があり、史跡看板が建っています。
「多胡羊太夫宗勝を先祖として崇め祀っている」とありますが、たしかにこの辺りには「多胡」姓の家が多いのです。
「里見村誌」の伝説口碑の項に、こんなことが書かれています。
由来記の終盤、羊太夫が朝廷の攻撃によりもはやこれまでという場面です。
それで、多胡さんが多いんですね。
さて、石段を上って「多胡碑」を見に行きましょう。
途中で石段の材料が足らなくなったんでしょうか、文字が刻まれているものや、孔が開いてるのもあります。
幟旗を立てる杭だったんでしょうね。
てっぺんに、素朴ながらおしゃれな彫刻のある社殿が建っています。
社殿の右に建っているのが、「多胡碑」です。
あまり風化もなく、碑文も割合はっきりしています。
看板に「吉井の碑文と一部異なる箇所がある」と書いてありますが、ちょっと分かりにくいと思うので補足させて頂きます。
吉井の碑文では「和銅四年三月九日甲寅」となっているところが、間野の碑文は「和銅七年三月九日甲寅」となっている。
和銅四年の干支は「辛亥」であって「甲寅」ではない。
「甲寅」の年は和銅七年なので、「間野」ではそう直している。
しかし「甲寅」というのは「年の干支」ではなく、三月九日という「日の干支」なんだよ。
勘違いしちゃったんだね、ってことを言ってるんですね。
実は、吉井の「多胡碑」と異なる箇所はそれ以外にもあります。
それにしても、間野の「多胡碑」がいつ建碑されたのか不明というのも不思議なことです。
不思議と言えば、その「多胡碑」のすぐそばに、何の目的か分からない不思議な石碑が建っています。
もしかすると、「多胡神社」を建てるために土地を寄進した人物なのかも知れません。
だとすると、「多胡碑」の建碑も天保七年(1836)ではないかと思うのですが・・・。
さぁ、どうなんでしょう。
「東間野」バス停から東へ50mほど行った所に「多胡神社」への入口があり、史跡看板が建っています。
「多胡羊太夫宗勝を先祖として崇め祀っている」とありますが、たしかにこの辺りには「多胡」姓の家が多いのです。
「里見村誌」の伝説口碑の項に、こんなことが書かれています。
「 | 今日、間野、谷ケ沢、上神等には多胡姓を名乗る家が極めて多くひとつの集落をなしている観があり、その他上里見一帯に散在している状態である。 |
この多胡氏の氏神が多胡神社で、祭神は多胡羊太夫である。(略) | |
この事について次のような伝説がある。 多胡家には「多胡羊太夫由来記」という文書が伝えられている。 里見村以外にも多数あり、その内容も必ずしも同じではないので、真偽のほどはこゝに断定できない今、里見村の間野の多胡武正、上神の多胡清所蔵のものによって、この伝説の略述をしよう。」 |
由来記の終盤、羊太夫が朝廷の攻撃によりもはやこれまでという場面です。
「 | 味方は悉く戦死して、残るは羊太夫主従三騎となる。 もはや最後と見えたその時、羊太夫主従三騎は金色の大きな蝶に化けて山上へ飛び登って行った。 |
これを見た寄せ手の大群は、この機を逃すなとばかり山上めがけて攻め上ってきたので、金色の大蝶は休む暇もなく、今度は三羽の鳶に化けて大空高く舞い上がって、北の方へ飛び去ったのである。 こうして、さしも激戦を交えたこの戦いも、ついに多胡城の落城をもって終りを告げたのである。 |
|
しかし、これより一ヵ月程前に、神様のお告げにより、もはや多胡城(落城)も間近いことを知った羊太夫は、嫡子宗顕、孫宗量の両人をひそかに派遣して一族の落ちつき先を定めさせた。 | |
両人は碓氷郡間野の山奥に潜行して、仮屋二軒を作って一族の到着を待ちうけていたのである。 この地は、今日「二ツ屋」と呼んでいる所である。 |
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鳶に化けた主従三人は、勿論こゝへ飛んできて落ちついた。 一ノ鳶、二ノ鳶、三ノ鳶という地名は、この三羽の鳶が飛来して、とまったことを意味するもので、こうして、羊太夫以下多胡一族は間野の山奥に定住したのであるということである。」 |
さて、石段を上って「多胡碑」を見に行きましょう。
途中で石段の材料が足らなくなったんでしょうか、文字が刻まれているものや、孔が開いてるのもあります。
幟旗を立てる杭だったんでしょうね。
てっぺんに、素朴ながらおしゃれな彫刻のある社殿が建っています。
社殿の右に建っているのが、「多胡碑」です。
あまり風化もなく、碑文も割合はっきりしています。
看板に「吉井の碑文と一部異なる箇所がある」と書いてありますが、ちょっと分かりにくいと思うので補足させて頂きます。
吉井の碑文では「和銅四年三月九日甲寅」となっているところが、間野の碑文は「和銅七年三月九日甲寅」となっている。
和銅四年の干支は「辛亥」であって「甲寅」ではない。
「甲寅」の年は和銅七年なので、「間野」ではそう直している。
しかし「甲寅」というのは「年の干支」ではなく、三月九日という「日の干支」なんだよ。
勘違いしちゃったんだね、ってことを言ってるんですね。
実は、吉井の「多胡碑」と異なる箇所はそれ以外にもあります。
それにしても、間野の「多胡碑」がいつ建碑されたのか不明というのも不思議なことです。
不思議と言えば、その「多胡碑」のすぐそばに、何の目的か分からない不思議な石碑が建っています。
もしかすると、「多胡神社」を建てるために土地を寄進した人物なのかも知れません。
だとすると、「多胡碑」の建碑も天保七年(1836)ではないかと思うのですが・・・。
さぁ、どうなんでしょう。
【多胡神社】