慈眼院というお寺が、観音さまが建つのと一緒にできたと思っている人も多いようです。
たしかに、観音さまが建った時、お寺らしき建物も造られました。
井上保三郎は、いずれお寺をと思って建屋は造っておいたのですが、そこが慈眼院になるにはあと5年の歳月が必要でした。
この経緯は、過去記事「観音さま入魂秘話」に書いてるんですが、いま読み直してみると大した秘話は書かれていませんね。
平成十三年(2001)発行の「慈眼院小史」には、もう少し詳しい経緯が書いてあります。
文中、「良全の執念」と一言で済ませていますが、実際には壮絶な寺探しだったようで、このことについても途切れ途切れではありますが、同書に記されています。
二代目住職・橋爪良恒師の言葉です。
そんな経過があって、良全師の家族は高野山から高崎市中大類の「萬惣寺」に戻ってきました。
慈眼院の移転が決まり、受け入れ準備が急ピッチで進む昭和十六年(1931)三月十九日、良全師と当時14歳の良恒師だけが、やがて慈眼院となる観音山上へ移ってきます。
良全師が残したその日の日記には、こう記されていたそうです。
その四日後の三月二十三日、高野山高室院住職・斎藤興隆師に背負われて、白布に巻かれた慈眼院のご本尊・聖観音菩薩像がやって来ます。
このご本尊の縁起については、明治四十四年(1911)発行の「紀伊續風土記」第四輯に、こう記されています。
盛大な入仏法要が行われたのは、その二十日ほど後、四月十三日でした。
写真では日が差しているように見えますが、法要が始まった時には雨が降り出し、本堂と白衣大観音像前に分かれて行われたそうです。
この雨、もしかすると、井上保三郎翁の嬉し涙だったのかも知れませんね。
たしかに、観音さまが建った時、お寺らしき建物も造られました。
井上保三郎は、いずれお寺をと思って建屋は造っておいたのですが、そこが慈眼院になるにはあと5年の歳月が必要でした。
この経緯は、過去記事「観音さま入魂秘話」に書いてるんですが、いま読み直してみると大した秘話は書かれていませんね。
平成十三年(2001)発行の「慈眼院小史」には、もう少し詳しい経緯が書いてあります。
「 | 当時は寺院の県外移転は極端に制限されていて至難のことは勿論、単独の寺院建立はさらに難しかった。移転招致以外になかったのである。 さらに最初につまずいたのが後々までひびいて、三転四転することとなる。 |
初めに候補に上がって移転実現寸前までいったのは、高野山下九度山町、慈尊院(弘法大師御母公御廟所)の持ち寺「勝利寺」(現存)という名刹であった。 総代の調印に手間取っているうちに、名刹の県外流出禁止の法令が出て駄目になった。 |
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高野山上の寺院、自性院、赤松院等もその対象となり交渉されたが、条件等折り合わず断念す。 その他九州や北陸地方の無住寺の名前も数ヶ所挙がったが、結局は断念。 |
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もはや辞める他なしというところまできて、当の保三郎翁の死に会い、ほとんど寺院移転は絶望的なところまで追い詰められた。これを救ったのが良全の執念と、同じ関東の出身者として高室院の住職をしていた斎藤興隆師の友情と好意であった。 兼務していた慈眼院が譲渡されることになった。」 |
文中、「良全の執念」と一言で済ませていますが、実際には壮絶な寺探しだったようで、このことについても途切れ途切れではありますが、同書に記されています。
二代目住職・橋爪良恒師の言葉です。
「 | 開眼法要が同年十月二十日に行われ、当時の高野山の管長高岡隆心猊下が導師としてこの地へ親教され、その随行長を務めたのが父であった。 その頃父は高野山の総本山金剛峯寺の信徒課長をしていた。 |
そのことを縁として父は井上翁と親交を結んだが、爾後、翁の依頼を受けて、観音像をお守りする寺を探すことになった。(略) 父の三十代後半はそのことに費やされた。(略) |
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その間数年、実際は寺探しの挫折の連続であり、最悪の場合を考え、その時は故郷へ帰るわけにもいかず、全国の高野山末寺の空き寺を探し廻った時期もあったらしい。 | |
そうした中で私が子供心に忘れ難いのは、新潟県の村上というところに無住寺があり、そこへ一家を連れて移住寸前というところまでいったらしい。 | |
しかし師匠である大谷良真師(岩鼻町観音寺住職・父の姉の夫)の強い反対があり断念したということである。(略) | |
九州の別府や熊本という話もあったらしいが、そんなことになったら今頃どうしていたろうか。」 |
そんな経過があって、良全師の家族は高野山から高崎市中大類の「萬惣寺」に戻ってきました。
慈眼院の移転が決まり、受け入れ準備が急ピッチで進む昭和十六年(1931)三月十九日、良全師と当時14歳の良恒師だけが、やがて慈眼院となる観音山上へ移ってきます。
良全師が残したその日の日記には、こう記されていたそうです。
「 | 午前中トラックで引き移る。 水道の水はなし、松本与重氏を煩わし、勝手を急造するやら大騒ぎ。 |
本日、市長久保田宗太郎氏、井上工業支配人平山長次郎氏、小生の代理として観音寺大谷良真師三人、高野山へ本尊勧請に出発、自分は与重氏、悟(良恒師のこと)と三人して観音山上第一夜の夢を結ぶ。」 |
その四日後の三月二十三日、高野山高室院住職・斎藤興隆師に背負われて、白布に巻かれた慈眼院のご本尊・聖観音菩薩像がやって来ます。
このご本尊の縁起については、明治四十四年(1911)発行の「紀伊續風土記」第四輯に、こう記されています。
「 | 持佛に安置す縁起に云く、相州鎌倉郡坂の下村、安左衛門といへる人、由井ヶ濱に於て漁せし時、觀音の像網にかゝりて上り給ふ、安左衛門驚嘆して當院に寄せ來る、爾しより是尊を本尊と仰き奉る、誠に是未代希有の靈像なり」 |
盛大な入仏法要が行われたのは、その二十日ほど後、四月十三日でした。
写真では日が差しているように見えますが、法要が始まった時には雨が降り出し、本堂と白衣大観音像前に分かれて行われたそうです。
この雨、もしかすると、井上保三郎翁の嬉し涙だったのかも知れませんね。
【萬惣寺】