「観音山山頂駐車場」には、「平和塔」が建っています。
ご年配の方はいまだに「忠霊塔」と呼びますが、昭和九年(1934)陸軍特別大演習で天皇陛下が行幸なされるのに先立ち、同年十一月三日の「明治節」に合わせて除幕式が執り行われました。
敗戦翌年の昭和二十一年(1946)、内務・文部両省から、「公共の建造物及びその構内又は公共用地に存在するもので、明白に軍国主義的又は極端なる国家主義的思想の宣伝鼓吹を目的とするものは、之を撤去すること。」という通牒が発せられています。
この大きな「忠霊塔」がよく残ったものだなぁと思いますが、この塔を建てたのが昭和九年であったことが幸いしたかもしれません。
明治時代に建てられた「忠魂碑」の多くは、その揮毫者が軍神・乃木希典です。
また、陸軍大臣・東条英機の名が刻まれた碑が建てられるのは、昭和十八年(1943)以降です。
観音山の「忠霊塔」には、どちらの名も刻まれることがなかったため、単なる「慰霊碑」として撤去を免れたのでしょう。
そして昭和二十七年(1952)、富山県が文部省に次のようなお伺いを立てています。
それに対する、文部省の回答はこうでした。
観音山の「忠霊塔」も、おそらく、このような経緯で「平和塔」と改められたのだと思います。
昭和二十七年(1952)といえば、まだご記憶の方も相当いらっしゃるのではないでしょうか。
そうです、観音山で「新日本高崎子ども博覧会」が開催された年です。
この「子ども博覧会」を機に作られた歌が、「高崎音頭」でした。
◇花の上州どこから明ける 「高崎音頭」を広めよう
そしてその時、「平和塔」のすぐそばに、もう一つ塔が建てられました。
「子ども博覧会」の閉会後、動物園と遊器具をそのまま使って造られた、市営「観音山遊園地」のパンフレットです。↓
「こどもの天國全景」の右端に、「大飛行塔」というのがあるでしょう。
これが、「子ども博覧会」の時、建てられたのです。
その「大飛行塔」の貴重な動画があります。↓
「飛行塔」はいつ撤去されたのでしょうか、昭和三十五年(1960)には「山頂駐車場」となっています。
翌昭和三十六年(1961)には、「観音山遊園地」の経営は上信電鉄に引き継がれ、「フェアリーランド」(後のカッパピア)として再整備されていきました。
昭和四十一年(1966)は、高崎市制施行六十五周年、白衣大観音建立三十周年の年でした。
この時、京都嵯峨大覚寺の草繫全覚門跡に随行してきた修験者たちによって、「平和塔」前広場において、「柴灯護摩」(さいとう・ごま)が盛大に執り行われました。
これがご縁となり、「柴灯護摩」の行事は、昭和四十五年(1970)頃から「観音山の火まつり」と名前を変えて、毎年七月の最終土曜日に行われるようになり、観音山の夏の風物詩となっていましたが、いつしかやらなくなってしまいました。
そして今、毎年8月第4土曜日には観音山全山にわたって「万灯会」の灯りがともります。
もちろん「平和塔」前にも工夫を凝らして沢山の灯りが並べられ、日が落ちるのを待っています。
ご年配の方はいまだに「忠霊塔」と呼びますが、昭和九年(1934)陸軍特別大演習で天皇陛下が行幸なされるのに先立ち、同年十一月三日の「明治節」に合わせて除幕式が執り行われました。
敗戦翌年の昭和二十一年(1946)、内務・文部両省から、「公共の建造物及びその構内又は公共用地に存在するもので、明白に軍国主義的又は極端なる国家主義的思想の宣伝鼓吹を目的とするものは、之を撤去すること。」という通牒が発せられています。
この大きな「忠霊塔」がよく残ったものだなぁと思いますが、この塔を建てたのが昭和九年であったことが幸いしたかもしれません。
明治時代に建てられた「忠魂碑」の多くは、その揮毫者が軍神・乃木希典です。
また、陸軍大臣・東条英機の名が刻まれた碑が建てられるのは、昭和十八年(1943)以降です。
観音山の「忠霊塔」には、どちらの名も刻まれることがなかったため、単なる「慰霊碑」として撤去を免れたのでしょう。
そして昭和二十七年(1952)、富山県が文部省に次のようなお伺いを立てています。
「 | 公共機関が、公の立場において、公共用地に戦没者慰霊塔を建ててよいか。」 |
それに対する、文部省の回答はこうでした。
「 | 宗教施設、または宗教的行事を伴う施設でない限り、公の機関が殉教者(戦没者を含む)記念碑を建設することは、政教分離の原則に抵触しないものと考える。 | |||
但し、「忠霊塔」「忠魂碑」など、誤解を招きやすい語は、なるべく避けられたい。」 |
観音山の「忠霊塔」も、おそらく、このような経緯で「平和塔」と改められたのだと思います。
昭和二十七年(1952)といえば、まだご記憶の方も相当いらっしゃるのではないでしょうか。
そうです、観音山で「新日本高崎子ども博覧会」が開催された年です。
この「子ども博覧会」を機に作られた歌が、「高崎音頭」でした。
◇花の上州どこから明ける 「高崎音頭」を広めよう
そしてその時、「平和塔」のすぐそばに、もう一つ塔が建てられました。
「子ども博覧会」の閉会後、動物園と遊器具をそのまま使って造られた、市営「観音山遊園地」のパンフレットです。↓
「こどもの天國全景」の右端に、「大飛行塔」というのがあるでしょう。
これが、「子ども博覧会」の時、建てられたのです。
その「大飛行塔」の貴重な動画があります。↓
(「観音山のむかしと今」1990高崎市教育委員会制作より)
「飛行塔」はいつ撤去されたのでしょうか、昭和三十五年(1960)には「山頂駐車場」となっています。
翌昭和三十六年(1961)には、「観音山遊園地」の経営は上信電鉄に引き継がれ、「フェアリーランド」(後のカッパピア)として再整備されていきました。
昭和四十一年(1966)は、高崎市制施行六十五周年、白衣大観音建立三十周年の年でした。
この時、京都嵯峨大覚寺の草繫全覚門跡に随行してきた修験者たちによって、「平和塔」前広場において、「柴灯護摩」(さいとう・ごま)が盛大に執り行われました。
これがご縁となり、「柴灯護摩」の行事は、昭和四十五年(1970)頃から「観音山の火まつり」と名前を変えて、毎年七月の最終土曜日に行われるようになり、観音山の夏の風物詩となっていましたが、いつしかやらなくなってしまいました。
そして今、毎年8月第4土曜日には観音山全山にわたって「万灯会」の灯りがともります。
もちろん「平和塔」前にも工夫を凝らして沢山の灯りが並べられ、日が落ちるのを待っています。
この世から戦争が無くなりますように。
この国が、いつまでも平和で豊かな国でありますように。
この国が、いつまでも平和で豊かな国でありますように。