
80mほど進むと、また二股に分かれます。↓

正面に見えるのは、豊岡中学校の校門。
鎌倉街道は、この校庭を突き抜けるように通っていたようです。

珍しいんじゃないでしょうか。
そういえば、「若宮八幡宮」の境内にも土俵がありました。↓

豊岡という所は、相撲に力を入れているのでしょうか。
さすが、関脇・稲川政右衛門を輩出した土地ですね。

右にカーブして90mほどの所に、ベンチが置かれた小さなスペースがあります。↓

「ミレニアム記念 藤棚 藤花公民館之建」という看板が掛けられています。
「藤花公民館」の「藤棚」とは、なかなかシャレてるじゃありませんか。

よく見ると、山茶花の根元に小さな石祠が祀られています。
以前は、「史蹟 笛吹塚」と書かれた木柱が建っていたはずですが、朽ちてしまったのか今はありません。
「若宮八幡宮」には源義家伝説が伝わっていましたが、この「笛吹塚」には義経伝説が残っています。
明治四十三年(1910)編纂の「豊岡村郷土誌」に、こう書かれています。
「 | 上豊岡村字花見ニ石置場アリ、 |
古昔ヨリ石置場ノ近傍ニ奥州街道アリテ、往昔、牛若丸奥州ヨリ帰ルトキ、コノ石塚ニ行キ愛スルトコロノ笛ヲ弄セシト、 | |
依ッテ笛吹塚ト称スト」 |
ここに書かれている「笛吹塚」は、現在地でなく、ここから南南西300mほどの所にあったのだそうです。
松の木が何本か生えている小さな塚だったということですが、宅地開発のため松の木も塚も取り払われてしまいました。
そこで、そこにあった石祠を現在地に移し、新しい「笛吹塚」としたのです。
ただ、標柱もなくなり、由来看板もないというこの状態では、やがて人々の記憶からもなくなってしまいそうで心配です。

元の「笛吹塚」から北東700m、信越線の線路の向こう側にある「笛吹公園」です。
元の塚からあまりにも離れているので、関係あるかどうかは疑問です。
由来を書いた看板もありません。
ちょっと思ったのは、「笛吹」と書いて「うすい」と読むことです。
旧豊岡村は「碓氷(うすい)郡」でしたし、近くには「碓氷(うすい)川」が流れています。
もしかすると、「笛吹塚」は「うすい塚」だったのではないでしょうか。
かつての「碓氷川」はよく氾濫したといいますから、それによって命を失った人の墳墓か、供養塚だったとも考えられます。
想像を逞しくすれば、それは幼気な子どもであったかも知れません。
野山や田畑をぴょんぴょん飛び回り、村の祭りには上手に笛を吹く、まるで牛若丸のような・・・。
伝説の里・豊岡の地に佇ずんでいると、いろいろな物語が浮かんできてしまいます。
昔の人もきっと、囲炉裏端でそんな話を語って聞かせていたのでしょうね。
(参考図書:「豊岡誌」)
【今日の散歩道】