「常安寺」に、豊岡出身で関脇までいったお相撲さんのお墓があります。
群馬県出身で関脇までいったお相撲さんは、三人しかいません。
沼田出身の栃赤城、箕郷出身の琴錦、そして時代は大分遡りますが、今回ご紹介する稲川政右衛門(いながわ・まさえもん)です。
稲川政右衛門は、明治四年(1871)豊岡村字尺地の生まれ、本名は吉井貞四郎(よしい・ていしろう)といいます。
身長五尺五寸(167cm)、体重二十九貫(110kg)、両手の指を開いたまま土俵に突き立てるような独特な仕切りで、得意技は突っ張りと諸差しでの寄りだったそうです。
「常安寺」本堂の北に、稲川が明治三十一年(1898)に亡くなった父・兵造(ひょうぞう)のために建てたお墓があります。
明治三十三年(1900)、当時、東前頭五枚目だった稲川は、高崎の成田山光徳寺に於いて、父の追善大相撲を催します。
その収益によって建てられたのがこの墓で、元は「萬日堂」にありましたが、「萬日堂」移転により「常安寺」に移されました。
この墓石の三つの面に、竹林忠澄という人の撰で、兵造と貞四郎のことがびっしり刻まれています。
それによると兵造は、
という人物だったようです。
その五男として生まれた貞四郎もまた、
としていたそうです。
そこへ突然、足利出身の相撲部屋の親方がやってきます。
と、どうやら最初はあまり乗り気ではなかった風ですが、貞四郎13歳で稲川部屋入門となった訳です。
貞四郎の初土俵は明治二十一年(1888)16歳の時、四股名は「豊岡」でした。
その後、師匠の遺言で師匠の前名「玉風」をもらって「玉風貞四郎」と改め、明治三十二年(1899)に名跡・稲川政右衛門を襲名し、現役と年寄の二枚鑑札となりました。
そして、東の関脇となったのは明治三十四年(1901)のことでした。
明治四十二年(1909)の一月場所を最後に現役を引退し、同年二月に開館した「旧両国國技館」内に、相撲茶屋「上州屋」を開きますが、大正五年(1916)東京貝殻町の贔屓先で飲酒中に脳溢血を起こし、あっけなくこの世を去ります。享年46歳でした。
稲川政右衛門の墓は、兵造の墓の右奥にあります。
このお墓、最初は代々稲川名跡の菩提寺である、東京谷中の延寿寺日荷堂にあったのです。
建立者は、妻・マサと弟子・鷲尾嶽ヿ(こと)大谷米太郎とあります。
大谷米太郎とは、あの「ホテル・ニューオータニ」の創業者で、鷲尾嶽と同一人物です。
その辺のことを説明するには、大谷氏の波乱に満ちた人生からお話ししなければなりません。
少し長くなりますが、お付き合いください。
大谷米太郎氏は、明治十四年(1881)富山県の寒村に、六人兄弟の長男として生まれます。
家族を養うために朝早くから夜遅くまで、いくら一生懸命働いても手元に何も残らないという生活に、東京へ行って金を貯めようと決心します。
31歳の時、母親に「3年間だけひまをください。金を残して帰って来ますから。」と言って汽車賃だけをもらい、あてにする人もいない東京へ出て行きます。
切符を買うと手元には20銭しか残らなかったといいます。
東京へ着いて、一番安い宿屋で15銭払い、夕飯代わりの焼き芋に3銭払うと、懐にはもう2銭しかありません。
翌日から、保証人の要らない日雇いの人足仕事に就きます。
村相撲で横綱格だった大谷氏は、その怪力を活かして人の倍の荷物を運び、一日一円そこそこの稼ぎでしたが、その中からコツコツと貯蓄をして、60日間で29円残したといいます。
しかし、大谷氏が東京へ出てきた目的は商売を勉強することでした。
いつまでも日雇いではそれができないと、甘酒屋、八百屋、風呂屋、酒屋、米屋などに奉公して商売のコツは覚えましたが、商売を始めるためのタネ銭はなかなかできませんでした。
ちょうどその頃、大相撲がアメリカ巡業に行くという話があり、アメリカへ行けば日本の十倍も金儲けができると聞いた大谷氏は、「相撲取りになってアメリカへ渡り、向こうで相撲をやめてそのままアメリカで働こう。」と考え付いたのです。
そこで、故郷の村相撲で一緒に相撲を取っていた山田川清太郎を訪ねて行った先が、吉井貞四郎こと稲川政右衛門が親方なっていた稲川部屋でした。
稲川親方に強さを認められた大谷氏は、鷲尾嶽という四股名をもらい、31歳で初土俵を踏むことになります。
2年後、アメリカ巡業の話が立ち消えになってしまうと、十両入りを目前にしながらあっさり引退し、持ち金全部をはたいて「鷲尾嶽酒店」を開業します。
持前の頑張りと商才で経営は順調に推移し、稲川親方の口利きもあってか、国技館の酒を一手に引き受けるまでになります。
稲川親方が急死したのは、大谷氏が「鷲尾嶽酒店」で稼いだ資金を元に鉄鋼会社「東京ロール旋削所」を立ち上げた翌年でした。
その後、大谷重工業を興して「鉄鋼王」とまで呼ばれ、ホテル・ニューオータニの創業者になって「日本の三大億万長者」のひとりと呼ばれるようになっても、日荷堂の稲川親方の墓参を怠ったことはなかったそうです。
大谷氏が昭和四十三年(1968)88歳で亡くなった後、稲川親方の墓は日荷堂から萬日堂へ移され、そして常安寺へ移されたという訳です。
今回、稲川政右衛門のお墓と、それを建立した大谷米太郎氏のことから、人の縁の大切さと、人生の奥深さも知ったような気がします。
高崎市民に、広く知って欲しい歴史遺産だと思いました。
群馬県出身で関脇までいったお相撲さんは、三人しかいません。
沼田出身の栃赤城、箕郷出身の琴錦、そして時代は大分遡りますが、今回ご紹介する稲川政右衛門(いながわ・まさえもん)です。

身長五尺五寸(167cm)、体重二十九貫(110kg)、両手の指を開いたまま土俵に突き立てるような独特な仕切りで、得意技は突っ張りと諸差しでの寄りだったそうです。

明治三十三年(1900)、当時、東前頭五枚目だった稲川は、高崎の成田山光徳寺に於いて、父の追善大相撲を催します。
その収益によって建てられたのがこの墓で、元は「萬日堂」にありましたが、「萬日堂」移転により「常安寺」に移されました。
この墓石の三つの面に、竹林忠澄という人の撰で、兵造と貞四郎のことがびっしり刻まれています。
それによると兵造は、
「 | 幼名濱之助を稱し その先は兵庫頭顯守に出て豊岡村に住し代々農を業とし村長の職を世襲に天保九年(1838)十月廿日宗家に生れ・・・」 |
「 | 身體肥大 力量衆に超え 加ふるに釼(剣)、鎗(槍)、柔術に優れ膽(胆)まさに大なれば 事を處寿る(処する)に當り敏捷にして偏頗(へんぱ:偏り)なかりし・・・」 |
その五男として生まれた貞四郎もまた、
「 | 児童の時より體軀(体躯)偉大 容貌毅然・・・」 |
そこへ突然、足利出身の相撲部屋の親方がやってきます。
「 | 明治十七年(1884)一月 相撲年寄稲川政右衛門 突然樽酒を提げ来りて慇懃に乞はれ☐☐☐遂に諾して師弟の契約を為さしむ」 |
貞四郎の初土俵は明治二十一年(1888)16歳の時、四股名は「豊岡」でした。
その後、師匠の遺言で師匠の前名「玉風」をもらって「玉風貞四郎」と改め、明治三十二年(1899)に名跡・稲川政右衛門を襲名し、現役と年寄の二枚鑑札となりました。
そして、東の関脇となったのは明治三十四年(1901)のことでした。
明治四十二年(1909)の一月場所を最後に現役を引退し、同年二月に開館した「旧両国國技館」内に、相撲茶屋「上州屋」を開きますが、大正五年(1916)東京貝殻町の贔屓先で飲酒中に脳溢血を起こし、あっけなくこの世を去ります。享年46歳でした。
稲川政右衛門の墓は、兵造の墓の右奥にあります。
このお墓、最初は代々稲川名跡の菩提寺である、東京谷中の延寿寺日荷堂にあったのです。
建立者は、妻・マサと弟子・鷲尾嶽ヿ(こと)大谷米太郎とあります。
大谷米太郎とは、あの「ホテル・ニューオータニ」の創業者で、鷲尾嶽と同一人物です。
その辺のことを説明するには、大谷氏の波乱に満ちた人生からお話ししなければなりません。
少し長くなりますが、お付き合いください。

家族を養うために朝早くから夜遅くまで、いくら一生懸命働いても手元に何も残らないという生活に、東京へ行って金を貯めようと決心します。
31歳の時、母親に「3年間だけひまをください。金を残して帰って来ますから。」と言って汽車賃だけをもらい、あてにする人もいない東京へ出て行きます。
切符を買うと手元には20銭しか残らなかったといいます。
東京へ着いて、一番安い宿屋で15銭払い、夕飯代わりの焼き芋に3銭払うと、懐にはもう2銭しかありません。
翌日から、保証人の要らない日雇いの人足仕事に就きます。
村相撲で横綱格だった大谷氏は、その怪力を活かして人の倍の荷物を運び、一日一円そこそこの稼ぎでしたが、その中からコツコツと貯蓄をして、60日間で29円残したといいます。
しかし、大谷氏が東京へ出てきた目的は商売を勉強することでした。
いつまでも日雇いではそれができないと、甘酒屋、八百屋、風呂屋、酒屋、米屋などに奉公して商売のコツは覚えましたが、商売を始めるためのタネ銭はなかなかできませんでした。
ちょうどその頃、大相撲がアメリカ巡業に行くという話があり、アメリカへ行けば日本の十倍も金儲けができると聞いた大谷氏は、「相撲取りになってアメリカへ渡り、向こうで相撲をやめてそのままアメリカで働こう。」と考え付いたのです。
そこで、故郷の村相撲で一緒に相撲を取っていた山田川清太郎を訪ねて行った先が、吉井貞四郎こと稲川政右衛門が親方なっていた稲川部屋でした。
稲川親方に強さを認められた大谷氏は、鷲尾嶽という四股名をもらい、31歳で初土俵を踏むことになります。
2年後、アメリカ巡業の話が立ち消えになってしまうと、十両入りを目前にしながらあっさり引退し、持ち金全部をはたいて「鷲尾嶽酒店」を開業します。
持前の頑張りと商才で経営は順調に推移し、稲川親方の口利きもあってか、国技館の酒を一手に引き受けるまでになります。
稲川親方が急死したのは、大谷氏が「鷲尾嶽酒店」で稼いだ資金を元に鉄鋼会社「東京ロール旋削所」を立ち上げた翌年でした。
その後、大谷重工業を興して「鉄鋼王」とまで呼ばれ、ホテル・ニューオータニの創業者になって「日本の三大億万長者」のひとりと呼ばれるようになっても、日荷堂の稲川親方の墓参を怠ったことはなかったそうです。
大谷氏が昭和四十三年(1968)88歳で亡くなった後、稲川親方の墓は日荷堂から萬日堂へ移され、そして常安寺へ移されたという訳です。
今回、稲川政右衛門のお墓と、それを建立した大谷米太郎氏のことから、人の縁の大切さと、人生の奥深さも知ったような気がします。
高崎市民に、広く知って欲しい歴史遺産だと思いました。
(参考図書:「豊岡誌」「続・高崎漫歩」 「高崎の散歩道」
「私の履歴書 昭和の経営者群像」)
「私の履歴書 昭和の経営者群像」)
【稲川政衛門の墓】