高浜郵便局の東200mほどの静かな坂の途中に、「駒形神社」はあります。
鳥居を潜ると、落ちそうな笠をかぶった石灯籠が左右に建っています。
不思議なことに、左側のは寛政十二年(1800)、右側のは明治二十五年(1892)の奉納です。
石灯籠はもう一セット、石段の両脇にもありまして、これは天明二年(1782)です。
面白くなって、社殿前の石灯籠の奉納時期も見てみると、平成六年(1994)。
賽銭箱は平成十五年(2003)。
立派な手水鉢は平成十九年(2007)、鳥居はその翌年に奉納されてます。
そして今年は、ハチさんが奉納の真最中でした。
邪魔をすると怒られそうなので、早々に退散いたしましょう。
こちらの仲睦まじくしているお二人にも、お邪魔だったでしょうか。
「駒形神社」だけに、「人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られて死んじまえ。」なんて言われそうで。
「駒形神社」を出て坂道を下っていると、石垣の上に妙なものが建っているのが目に入りました。
向こう側へ回ってみると、大きな「忠霊塔」が建っています。
台石には、「榛名町久留馬地區英霊合祀者氏名」として、台湾事変、日露戦役、日支事変、太平洋戦役で亡くなった方の名前がびっしり刻まれています。
坂道から見えた妙なものは、「忠霊塔」の左にありました。
中央に「彰忠碑」、その手前に左右一基づつの石碑が建っています。
きっと以前は鬱蒼とした場所だったんでしょう、途中から伐採された太い木の幹が何本も突っ立っています。
これが、奇妙なものの正体だったんですね。
左の碑は、「彰忠碑建設芳志録」。
右の碑は、「従軍者」となっています。
その裏面を見て、「あー。」と思いました。
こう刻まれています。
ここの「彰忠碑」も校庭に埋められていたんですね。
豊岡の「常安寺」の所にある「忠魂碑」もそうでした。
自分よりも、家族よりも、君への忠を求められた時代の証です。
鳥居を潜ると、落ちそうな笠をかぶった石灯籠が左右に建っています。
不思議なことに、左側のは寛政十二年(1800)、右側のは明治二十五年(1892)の奉納です。
石灯籠はもう一セット、石段の両脇にもありまして、これは天明二年(1782)です。
面白くなって、社殿前の石灯籠の奉納時期も見てみると、平成六年(1994)。
賽銭箱は平成十五年(2003)。
立派な手水鉢は平成十九年(2007)、鳥居はその翌年に奉納されてます。
そして今年は、ハチさんが奉納の真最中でした。
邪魔をすると怒られそうなので、早々に退散いたしましょう。
こちらの仲睦まじくしているお二人にも、お邪魔だったでしょうか。
「駒形神社」だけに、「人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られて死んじまえ。」なんて言われそうで。
「駒形神社」を出て坂道を下っていると、石垣の上に妙なものが建っているのが目に入りました。
向こう側へ回ってみると、大きな「忠霊塔」が建っています。
台石には、「榛名町久留馬地區英霊合祀者氏名」として、台湾事変、日露戦役、日支事変、太平洋戦役で亡くなった方の名前がびっしり刻まれています。
坂道から見えた妙なものは、「忠霊塔」の左にありました。
中央に「彰忠碑」、その手前に左右一基づつの石碑が建っています。
きっと以前は鬱蒼とした場所だったんでしょう、途中から伐採された太い木の幹が何本も突っ立っています。
これが、奇妙なものの正体だったんですね。
左の碑は、「彰忠碑建設芳志録」。
右の碑は、「従軍者」となっています。
その裏面を見て、「あー。」と思いました。
こう刻まれています。
「 | 大東亜戦役終戦以來十有餘年、第六小学校校庭に埋没せられし彰忠碑を此処に再建し、出征兵士の忠誠を永遠に顕彰せんとす」 |
ここの「彰忠碑」も校庭に埋められていたんですね。
豊岡の「常安寺」の所にある「忠魂碑」もそうでした。
自分よりも、家族よりも、君への忠を求められた時代の証です。
【駒形神社】