旧群馬町の小字「花園」から700m南南東の「塚田」。
そこに、なぜか「花園薬師」。
「花園薬師」の由来については、あまり確かなことは分かっていないようです。
「国府村誌」には、こう書かれているのですが。
「ハッキリ書いている。」と言うんですが、読解力の弱い私には、ハッキリ分かりませんでした。
看板の中ほどに書かれている「小薬師」が、堂の中に鎮座していました。
ほんとは、もっと沢山あったらしいです。
「稲荷台」(とうかだい)というのは、「塚田」の隣村です。
畑仕事をしている方に聞いてみました。
「稲荷台の薬師様というのは、この近くにあるんですか?」
「区民センターの所にあったんだけどね・・・。」
区民センターを建てる時に、どこかへ行ってしまったようです。
じゃ、次回は「稲荷台」へ行ってみましょうか。
今日は、ここまで。
そこに、なぜか「花園薬師」。
「花園薬師」の由来については、あまり確かなことは分かっていないようです。
「国府村誌」には、こう書かれているのですが。
「 | 泰亮愚海はその著「上毛伝説雑記拾遺」巻三に於いて後一条天皇の長元元戊辰六月、平忠常が下総国より当地に移り城を築き、その鎮護の為に妙見寺や国分寺の塔を再建し花園薬師、化粧薬師、斎城薬師、阿弥陀寺、最勝寺、最経寺、八王子権現、弥勒寺、清徳寺等を建てたと書いているし、「上毛及上毛人」五十三号府中号に於ても、国分寺廃滅後(鎌倉初期)府中の人々が国分寺の法体を移し、国分寺に代わるものとして尊信したのが花園薬師であるとハッキリ書いている。」 |
看板の中ほどに書かれている「小薬師」が、堂の中に鎮座していました。
ほんとは、もっと沢山あったらしいです。
「 | 花園薬師の石像の類は明治末年より大正の末年迄、稲荷台を相手に子供達が「石仏の取りっこ」を行い、此処にあった古い石仏類は恐らく稲荷台へ持ち去られ、何処かの邸の裏にでも埋められているらしい。」(国府町誌) |
「稲荷台」(とうかだい)というのは、「塚田」の隣村です。
畑仕事をしている方に聞いてみました。
「稲荷台の薬師様というのは、この近くにあるんですか?」
「区民センターの所にあったんだけどね・・・。」
区民センターを建てる時に、どこかへ行ってしまったようです。
じゃ、次回は「稲荷台」へ行ってみましょうか。
今日は、ここまで。
【花園薬師】