複雑な形をした、後疋間町(うしろひきま・まち)と、その周囲をぐるっと囲む引間町(ひきま・まち)。
その境目に、「福守神社」があります。
田島桂男氏著「高崎まち知るべ」によると、「引間」の地名のいわれについて、こう書いてあります。
また、近藤義雄氏のこんな説も紹介しています。
同じ読みをする、「引間」と「疋間」については、
のだそうです。
さて、「福守神社」です。
看板では、祭神を「木之花咲夜毘売」と表記していますが、あまり見かけない表記です。
よく見るのは「木花之佐久夜毘売」とか、「木花開耶姫」とかでしょうか。
「火中出産の神話」というのも、なかなか深いお話でして。
「福守神社」には鳥居が二つあり、一の鳥居は「國祖産體 福守大明神」、二の鳥居は「諏訪大明神」となっています。
「諏訪大明神」は「建御名方」(たけみなかた)という武勇の神様ですが、妻「八坂刀賣」(やさかとめ)との間には、十三柱とも二十二柱とも言われるたくさんの御子神(みこがみ)が生まれていますので、子授けの神様でもあります。
その子授けの御神体というのが、「福守神社」の社殿に祀られているというのです。
「群馬町誌 通史編下」によると、
とあります。
覗いてみましょう。
御神体は見えませんが、なるほど、少なくなったとはいえ、奉納されたものがずらっと並んでます。
いやはや・・・。
看板の最後に、「御神木のムクの古木」のことが書いてあります。
社殿の前の大きな切り株がそれだったのでしょう。
昭和四十三年(1968)発行の「国府村誌」に載っている写真を見ると、「ムクの木」は社殿の後ろに聳えています。
ということは、社殿を建て替えた時に、「ムクの木」の後ろに移したということですか。
えらいなぁと思うのは、切り倒した「ムクの木」の幹が、ちゃんと保存されていることです。
説明書きも添えられています。
これを見ると、切り倒したのは平成二十三年(2011)だったんですね。
歴史をきちんと伝えていく。
大切なことです。
その境目に、「福守神社」があります。
田島桂男氏著「高崎まち知るべ」によると、「引間」の地名のいわれについて、こう書いてあります。
船尾山縁起では、「千葉常将が船尾寺に預けた子が天狗にさらわれたのを、寺で殺されたと思い、大兵を率いて船尾山を焼き討ちした。 これに対し、寺側も僧兵を繰り出したので、常将は一時的に兵を引いた。 この場所を引間という。 |
また、近藤義雄氏のこんな説も紹介しています。
おそらく引間は引馬であり、古く馬市などが妙見社の祭礼日にあったのではなかろうかと思う。 |
同じ読みをする、「引間」と「疋間」については、
「後疋間」の名のいわれは、「引間」の北につながっている土地であることによっている。 | |
「引間」と「後疋間」は、以前は一つの「ひきま」であったと考えられるが、南接する「引間」と区別するため、江戸時代から「疋間」と表記していた。 | |
明治十一年(1878)群馬郡が二分して西群馬郡になったとき、「後」の字を加えて「後疋間村」になった。 |
さて、「福守神社」です。
看板では、祭神を「木之花咲夜毘売」と表記していますが、あまり見かけない表記です。
よく見るのは「木花之佐久夜毘売」とか、「木花開耶姫」とかでしょうか。
「火中出産の神話」というのも、なかなか深いお話でして。
「福守神社」には鳥居が二つあり、一の鳥居は「國祖産體 福守大明神」、二の鳥居は「諏訪大明神」となっています。
「諏訪大明神」は「建御名方」(たけみなかた)という武勇の神様ですが、妻「八坂刀賣」(やさかとめ)との間には、十三柱とも二十二柱とも言われるたくさんの御子神(みこがみ)が生まれていますので、子授けの神様でもあります。
その子授けの御神体というのが、「福守神社」の社殿に祀られているというのです。
「群馬町誌 通史編下」によると、
「 | 神体は鉄製の男性器で長さ20cmほどの大きさである。 この神体の制作年代は不詳だが、社伝では福守神社の創建と同じくしている。 |
また戦前には、社殿にところせましと数百本の木製男根が奉納されてあり、それも社殿には入りきれず軒下まで積み重ねる状態だったと聞く。」 |
覗いてみましょう。
御神体は見えませんが、なるほど、少なくなったとはいえ、奉納されたものがずらっと並んでます。
いやはや・・・。
看板の最後に、「御神木のムクの古木」のことが書いてあります。
社殿の前の大きな切り株がそれだったのでしょう。
昭和四十三年(1968)発行の「国府村誌」に載っている写真を見ると、「ムクの木」は社殿の後ろに聳えています。
ということは、社殿を建て替えた時に、「ムクの木」の後ろに移したということですか。
えらいなぁと思うのは、切り倒した「ムクの木」の幹が、ちゃんと保存されていることです。
説明書きも添えられています。
これを見ると、切り倒したのは平成二十三年(2011)だったんですね。
歴史をきちんと伝えていく。
大切なことです。
【福守神社】