国道254号線の吉井町交差点から富岡方面へ340m、横断歩道先の左側です。
入口右に「安全地蔵尊」の標柱、左に史跡看板が建っています。
その一番奥に、「安全地蔵尊」と「小野小町の休み石」が並んでいます。
史跡看板を見てみましょう。
小野小町にまつわる伝承は、それこそ全国津々浦々にあるようですが、生誕の地と言われる秋田県湯沢市雄勝町に伝わる話で見てみましょう。
ということになると、この「休み石」に小町が腰かけたのは、今から1,170年も前です。
よくまあ、今日まで連綿と語り継がれてきたもんです。
そういえば、「卒塔婆」に腰かけた小町の話というのもあるんですね。
ブログをやってると、時々あまりのタイミングの良さに驚くことがありますが、9月25日の上毛新聞に、その「卒塔婆」に腰かけた小町の話が載っていました。
「休み石」に腰かけたのは36歳の小町、「卒塔婆」に腰かけたのは100歳の小町ですけどね。
ところで、36歳の小町は、なぜ急に故郷が恋しくなったのでしょう。
絶世の美女であった小町ですから、言い寄ってくる男は数多いましたが、その誰にもなびくことはなかったそうです。
袖にされた男どもは面白くありません。
男だけじゃありません、そんな小町を妬ましく思っていた女性だって少なくなかったに違いありません。
そういう人たちが陰に陽に、あることないこと言いふらすのは昔も今も同じ。
きっと、都という所につくづく嫌気がさしちゃったんでしょうね。
それにしても、京の都から秋田までの女旅、さぞ大変だったことでしょう。
看板にあるように、「富岡市小野地区で病に倒れ」てしまい、そこで「庵を造り、仏道修行をした」というのです。
京から中山道を通り信州から姫街道を通ってきたとすると、「休み石」で休んだのは、病み上がりの小町ということになります。
富岡まで、足を延ばそうかな。
それじゃあ、次回。
入口右に「安全地蔵尊」の標柱、左に史跡看板が建っています。
その一番奥に、「安全地蔵尊」と「小野小町の休み石」が並んでいます。
史跡看板を見てみましょう。
小野小町にまつわる伝承は、それこそ全国津々浦々にあるようですが、生誕の地と言われる秋田県湯沢市雄勝町に伝わる話で見てみましょう。
「 | 京の都から小野良実(おののよしざね)という名の貴族が、郡司として出羽国福富の荘桐の木田(現在の雄勝町小野字桐木田)にやってくる。 |
大同四年(809)良実は地元有力者の娘である大町子(おおまちこ)との間に子をもうける。 その子の名は比古姫(ひこひめ)、後の小野小町である。 比古姫を生んだ大町子は間もなく亡くなってしまう。 |
|
比古姫自身は良実の教育により卓越した教養を身に着け、弘仁十三年(822)十三歳の時、郡司の任を終えた良実と共に都に上る。 | |
天長二年(825)比古姫十六歳の時、宮中に仕える。 この間に比古姫は「小野小町」と呼ばれるようになる。 |
|
承和十二年(845)小町三十六歳の頃、故郷が恋しくなり、出羽国福富の荘に戻る。」 |
(逆木一(さかき・はじめ)氏「言の葉の穴」より)
ということになると、この「休み石」に小町が腰かけたのは、今から1,170年も前です。
よくまあ、今日まで連綿と語り継がれてきたもんです。
そういえば、「卒塔婆」に腰かけた小町の話というのもあるんですね。
ブログをやってると、時々あまりのタイミングの良さに驚くことがありますが、9月25日の上毛新聞に、その「卒塔婆」に腰かけた小町の話が載っていました。
「休み石」に腰かけたのは36歳の小町、「卒塔婆」に腰かけたのは100歳の小町ですけどね。
ところで、36歳の小町は、なぜ急に故郷が恋しくなったのでしょう。
絶世の美女であった小町ですから、言い寄ってくる男は数多いましたが、その誰にもなびくことはなかったそうです。
袖にされた男どもは面白くありません。
男だけじゃありません、そんな小町を妬ましく思っていた女性だって少なくなかったに違いありません。
そういう人たちが陰に陽に、あることないこと言いふらすのは昔も今も同じ。
きっと、都という所につくづく嫌気がさしちゃったんでしょうね。
それにしても、京の都から秋田までの女旅、さぞ大変だったことでしょう。
看板にあるように、「富岡市小野地区で病に倒れ」てしまい、そこで「庵を造り、仏道修行をした」というのです。
京から中山道を通り信州から姫街道を通ってきたとすると、「休み石」で休んだのは、病み上がりの小町ということになります。
富岡まで、足を延ばそうかな。
それじゃあ、次回。
【小町の休み石】