「小祝神社」のすぐ隣にあるのが、「石昌寺」。
史跡看板は、参道の入口に建っています。
開基された寛永年間(1624~1643)には「石昌庵」と称していたということですから、きっと小さな庵だったのでしょう。
荒廃した「小祝神社」の再建を願い出たのが正徳二年(1712)だそうですが、その時には「庵」でなく「寺」になっています。
ただ、裕福なお寺だったという訳ではなさそうです。
「石昌寺」からの「小祝神社」再建願を受けた高崎藩城代は、江戸表へお伺いを立てます。
それに対して、江戸の家老は、その願いを承知した旨の回答をしてくるのですが、その中にこんなことが書かれています。
「石昌寺」自体も、何度か火災に遭って大変だったみたいです。
第二十一世住職・沙門祐廓という人が書いた過去帳に、このように書かれています。
同じく「上野国寺院明細帳」によると、明治四十二年(1909)三月十五日に再建落成の届出がされています。
現在の本堂は、平成九年(1997)に再建されたものです。
同じ時、薬師堂も再建されています。
この薬師様は、目にご利益があるということで、「目」「め」と書かれた紙が堂内に貼られています。
またまたブログ駆け出しの頃の記事ですが、この薬師様について思いつきで勝手なことを言ってます。
よろしかったら、ご笑覧下さいませ。 → ◇めめめ?
史跡看板は、参道の入口に建っています。
開基された寛永年間(1624~1643)には「石昌庵」と称していたということですから、きっと小さな庵だったのでしょう。
荒廃した「小祝神社」の再建を願い出たのが正徳二年(1712)だそうですが、その時には「庵」でなく「寺」になっています。
ただ、裕福なお寺だったという訳ではなさそうです。
「石昌寺」からの「小祝神社」再建願を受けた高崎藩城代は、江戸表へお伺いを立てます。
それに対して、江戸の家老は、その願いを承知した旨の回答をしてくるのですが、その中にこんなことが書かれています。
(黒字は、迷道院のテキトー訳です。)
「 | 本社建直シ度候得共、貧寺ニ而自力ニ難相叶候之間、御林之材木通例之代物を以被下度旨願書被指出候・・・」 | 本社(小祝神社)を建直したいと思っていますが、貧しい寺で自力では叶い難いので、御林の材木などを下されたいという旨の願書を差出され・・・ |
(間部家文書「従江戸到来御用状」)
「石昌寺」自体も、何度か火災に遭って大変だったみたいです。
第二十一世住職・沙門祐廓という人が書いた過去帳に、このように書かれています。
「 | 天保二年(1831)※六月三日全焼シテ、再ビ明治四十年(1907)四月十五日午前零時二拾分屋根ヨリ発火シテ、本尊外数点取り出シタルノミ、他ハ悉皆焼失セリ・・・」 |
(新編高崎市史 資料編14)
※ | 「上野国寺院明細帳」では、天保十二年(1841)六月中焼失となっている。 |
同じく「上野国寺院明細帳」によると、明治四十二年(1909)三月十五日に再建落成の届出がされています。
現在の本堂は、平成九年(1997)に再建されたものです。
同じ時、薬師堂も再建されています。
この薬師様は、目にご利益があるということで、「目」「め」と書かれた紙が堂内に貼られています。
またまたブログ駆け出しの頃の記事ですが、この薬師様について思いつきで勝手なことを言ってます。
よろしかったら、ご笑覧下さいませ。 → ◇めめめ?
【石昌寺】