史跡看板を巡っていると、時々、「なぜここに建てちゃったのかなぁ?」と首をひねりたくなることがありますが、「諏訪神社」の史跡看板はその最たるものです。
史跡看板の建っている「上中居岡西公園」は、「諏訪神社」とは直線距離で420mも離れた場所です。
これはないでしょう。
知らない人がこの史跡看板を見たら、「あぁ、この公園はむかし神社だったんだ。」と勘違いするに違いありません。
たぶん人の目に触れやすい場所にと考えたのでしょうが、それにしても離れすぎです。
どうしてもここにしたかったなら、せめて「諏訪神社」までの案内図を併設すべきでしょう。
と、憤慨しきりではありますが、「諏訪神社」そのものは私の好きな神社です。
まだブログ駆け出しの8年前、この神社のことを記事にしています。 → ◇「ひいらぎさま」
「ひいらぎさま」と呼ばれる上中居町の「諏訪神社」は、いかにも「村社」らしい鄙びた雰囲気の、いい神社です。
「諏訪神社」の由緒について、「新編高崎市史 資料編14」にはこう書かれています。
と言うんですが、この記述の出典とされる「上野国神社明細帳」の原本を見ると、「由緒 不詳」とあるだけです。
いったい、どこから出てきた話なんでしょう。
あちこち聴きまわっても出典らしきものは見つからず、最後の最後に「諏訪神社」へ行って宮司さんにお尋ねしてみました。
するとあっさり、「あ、これは神社に残っている古文書に書いてあるものです。」ということでした。
もしもし市史よ市史さんよ、という感じですが、ま、一件落着。
「諏訪神社」のあるこの地は「宇名室」(うなむろ)という変わった字名で、「神楽殿」と「稲荷社」の間に建っている「庚申塔」と「二十二夜塔」にも、「宇名室」の文字があります。
「宇名室」について、明治四十年代に書かれたと思われる「佐野村郷土誌」には、こう書かれています。
「宇名室」とは「宇夫須奈御諸」(うぶすな・みもろ)、つまり「産土神社」(うぶすな・じんじゃ)のことだという訳です。
一方、「諏訪神社」の宮司・堤三郎氏は、その著書「高崎上中居とは あれこれ」の中で、こういう説を示しています。
「宇」:極めて大きな・立派な・素敵な
「名」:助詞の「の、な」
「室」:人の住む所・家・館
ということで、「宇名室」は「大きな立派な家・館」(がある所)という意味になるとしています。
堤宮司の説を裏付けるように、古城塁研究家・山崎一氏の研究では、「諏訪神社」は「宇名室(うなむろ)環濠遺跡」の本郭と推定されると言っています。
本当のことは、境内の柊の古木だけが知っているのでしょう。
「佐野村郷土誌」に、当時の境内の様子が書かれています。
本殿裏の柊の古木の下には、「柊社」の小祠があります。
「柊は、若木の内は針の如く葉が尖っているが、老いては刺がおさまって円い葉となり、人の生育する様に似ている」といいます。
さにあるかあらぬか、同じ木に、刺のある葉を持つ枝も、刺のない葉を持つ枝も・・・。
年齢じゃないよね、やっぱり。
史跡看板の建っている「上中居岡西公園」は、「諏訪神社」とは直線距離で420mも離れた場所です。
これはないでしょう。
知らない人がこの史跡看板を見たら、「あぁ、この公園はむかし神社だったんだ。」と勘違いするに違いありません。
たぶん人の目に触れやすい場所にと考えたのでしょうが、それにしても離れすぎです。
どうしてもここにしたかったなら、せめて「諏訪神社」までの案内図を併設すべきでしょう。
と、憤慨しきりではありますが、「諏訪神社」そのものは私の好きな神社です。
まだブログ駆け出しの8年前、この神社のことを記事にしています。 → ◇「ひいらぎさま」
「ひいらぎさま」と呼ばれる上中居町の「諏訪神社」は、いかにも「村社」らしい鄙びた雰囲気の、いい神社です。
「諏訪神社」の由緒について、「新編高崎市史 資料編14」にはこう書かれています。
「 | 不詳なれども古老の伝へによれば往昔信濃國諏訪神社を勧請し、諏訪明神と称し境内に諏訪湖に似たる形状の池ありてこれを招神池と云ひたりと云ふ、後年に至りて庭地となる。 |
安政二年(1855)正月十一日地頭へ願い許を受けて文久二年(1862)八月社殿を建替せり旧社殿の棟札に依れば享保十七年(1732)三月再建と記載しあることから推して創立年代の古きこと疑ひなからん。 | |
上野國神明帳(西郡部)に従三位諏訪若御子明神と見えたるは当社なるべし。 | |
天明年間別当所災禍の為め古記、古文書等焼失し古事不明なり。(神社明細帳)」 |
と言うんですが、この記述の出典とされる「上野国神社明細帳」の原本を見ると、「由緒 不詳」とあるだけです。
いったい、どこから出てきた話なんでしょう。
あちこち聴きまわっても出典らしきものは見つからず、最後の最後に「諏訪神社」へ行って宮司さんにお尋ねしてみました。
するとあっさり、「あ、これは神社に残っている古文書に書いてあるものです。」ということでした。
もしもし市史よ市史さんよ、という感じですが、ま、一件落着。
「諏訪神社」のあるこの地は「宇名室」(うなむろ)という変わった字名で、「神楽殿」と「稲荷社」の間に建っている「庚申塔」と「二十二夜塔」にも、「宇名室」の文字があります。
「宇名室」について、明治四十年代に書かれたと思われる「佐野村郷土誌」には、こう書かれています。
「 | 宇名ハ 宇夫須奈(うぶすな)ノ略語 |
室ハ萬葉集ニ 我宿尓御諸乎立而(わがやどに・みもろをたてて)また見諸戸山矣(みもろとやまを)ナドアル御諸(みもろ)ト同ジク 神社ヲ云フ称ナレバ 宇名室ハ即チ産土(うぶすな)神社ト云フコトニテ・・・」 |
「宇名室」とは「宇夫須奈御諸」(うぶすな・みもろ)、つまり「産土神社」(うぶすな・じんじゃ)のことだという訳です。
一方、「諏訪神社」の宮司・堤三郎氏は、その著書「高崎上中居とは あれこれ」の中で、こういう説を示しています。
「宇」:極めて大きな・立派な・素敵な
「名」:助詞の「の、な」
「室」:人の住む所・家・館
ということで、「宇名室」は「大きな立派な家・館」(がある所)という意味になるとしています。
堤宮司の説を裏付けるように、古城塁研究家・山崎一氏の研究では、「諏訪神社」は「宇名室(うなむろ)環濠遺跡」の本郭と推定されると言っています。
本当のことは、境内の柊の古木だけが知っているのでしょう。
「佐野村郷土誌」に、当時の境内の様子が書かれています。
「 | 柊の老木數百株アリ 神木は柊ニシテ八尺(2.4m)廻リ |
松杉櫻其ノ他ノ雑木繫茂シ日光ヲ遮リ 自ラ神社ノ風致ヲ備フ」 |
本殿裏の柊の古木の下には、「柊社」の小祠があります。
「柊は、若木の内は針の如く葉が尖っているが、老いては刺がおさまって円い葉となり、人の生育する様に似ている」といいます。
さにあるかあらぬか、同じ木に、刺のある葉を持つ枝も、刺のない葉を持つ枝も・・・。
年齢じゃないよね、やっぱり。
【上中居諏訪神社】