
でも、銅像がここに建つまでにはちょっとした物語があります。

「 | ・・・市ハ銅像ヲ建設シテ翁ヲ記念セントス、高崎板紙株式會社ハ其ノ需ニ應ジ、昭和十五年社前ニ在ル翁ノ寿像ヲ寄贈シテ観音山ニ移建セシニ、偶々時局ノ變ニ遭ヒ之ヲ國家ニ供出セルニ依リ、相議シテ再ビ翁ノ像ヲ作リ、重ネテ之ヲ市ニ贈リ、地ヲ相シテ茲ニ之ヲ安ンズ・・・ |
昭和二十七年四月」 |
銅像は、もともと保三郎翁が経営していた「高崎板紙株式会社」の社前にあったというのです。
この辺の経緯が、昭和二十八年(1953)発行の「上毛俗話」に書かれています。
「 | 井上保三郎翁が高崎製紙株式會社を創立せられ、昭和十三年十一月逝去されるまで二十五年間社長として人間井上として社業ならびに高崎市の發展のために盡されたことは齊しく認めるところですが、大正九年株主總會は翁の銅像を建立するを決議するに至ったのも全く翁の人德の然らしむるところであり、また同時に株主各位の態度も實に立派だと思います。」 |
(「高崎板紙」は昭和二十四年/1949/に社名を「高崎製紙」と変更しています。)
銅像は大正十一年(1922)、「高崎板紙株式会社」前の同社公園内に建てられました。
写真左端に、それらしきものが見えます。
株主達はかねてから保三郎翁の功績を讃えるための方策を練っており、その結果銅像建設と決めていたのだそうですが、翁に知れると辞退されてしまうと思って、株主総会当日まで内緒にしていたようです。
保三郎翁はこれに驚きまた喜んで、お礼として隣接地に煉瓦造りの新式浴場を新設し、従業員やその家族に無料で入浴させることにしたということです。(上毛及上毛人第63号)
この銅像を市に寄贈して観音山に移設する経緯について、「上毛俗話」にはこうあります。
「 | 銅像が同社の構内に建てられたのは大正十一年ですが、ところが高崎市としては市に對する功績を永久に記念するため、翁ノ壽像を市に寄贈せられたい旨の申立がありました。 |
昭和十五年觀音山に移したのは、市の希望に應えた結果です。」 |
昭和十三年(1938)に保三郎翁が亡くなって、高崎市としても翁を讃える銅像を造りたかったが、どうにも手元不如意でということだったんでしょう。
「高崎板紙会社」が寄贈したということにして、観音山に設置した訳です。
しかし、この時設置した場所というのが、どうも現在地(白衣大観音傍)ではなかったらしいのです。
昭和十五年の高崎全図を見ると、清水寺近くに、「井上翁像」と描かれています。
ただ、この地図すごく大雑把で、道との位置関係や距離感も曖昧なんですが、少なくとも現在地、白衣大観音の傍でないことは確かです。

この人は、保三郎翁が創立した「高崎板紙株式会社」の二代目社長・小柏朝光氏です。
実は前々から、この人の銅像が何故ここに建っているのか、不思議に思っていました。

埋め込まれた銘板に「壽像ヲ社前ニ建テ」とありますので、最初は保三郎翁の銅像と同じく、「高崎板紙会社」の公園内に建てられていたようです。
そして、昭和二十七年(1932)とあります。これは保三郎翁の銅像が再建されたのと同じ年です。
さて、ここからはいつもながら迷道院の勝手な思ひつきです。
やはり、昭和十五年(1940)高崎市に寄贈された保三郎翁の銅像は、ここに建っていたのではないでしょうか。
そして戦時中の金属供出で失って、昭和二十七年(1952)に再建する時、場所を白衣大観音の傍としたのでしょう。
それに合わせて、「高崎板紙会社」公園内のおそらく保三郎翁像が建っていた場所に、二代目社長・小柏朝光氏の銅像を建てたものと考えます。
その後、「高崎板紙株式会社」は幾多の変遷を経て、昭和五十年(1975)に高崎工場を閉鎖します。
おそらくこの時、小柏朝光氏の銅像は、かつて初代社長・井上保三郎翁の銅像が建っていたこの場所に移されたのではないかと思うのです。
そう思う理由は、二つあります。
ひとつは、そう思わないと小柏朝光氏の銅像があそこに建っている理由が見つからないからです。
もうひとつは、保三郎翁像の銘板に刻まれた、「地ヲ相シテ茲ニ之ヲ安ンズ」という文言です。
「相する」というのは、「物事の姿・有り様などを見て、その良し悪し・吉凶などを判断する」ことだそうです。
つまり、「今まであちこち動かしましたが、保三郎翁が建てた白衣大観音の傍が最も相応しい地であるので、今度こそここに安住して頂きます」という思いが読み取れるのです。
はたして、真実や如何。
ご存知の方のご教示をお待ちしております。
さて、高崎の誇る偉人・井上保三郎翁については一応ここで一段落させて頂き、次回は白衣大観音原型作者・森村酉三についてのお話です。
【小柏朝光氏銅像】