
建立当初はおそらく小さかった木々が80年を経て大きく背を伸ばし、さしも御丈百三十尺(39.4m/公称41.8m)の観音様も上半身しか見えません。
今でこそ高崎のランドマークとして市民の誇りとなっている観音様ですが、当初はそのあまりの大きさに批判もあったようです。

「 | 1935年4月14日(日) |
・・・世界は、概念をもって把握するには廣大に過ぎるのだ。人間の思想などと言ってみても、その人間たるや所詮動物の |
「 | 一種属としての人間(homo sapiens)にほかならない。 |
(略) | |
ところがこの可憐な人間は、高崎でまず高さ三十糎の觀音像を作り、これを二米の模型に擴大し(これが高崎の井上事務所に飾ってある)、更にセメントで高さ四十米の巨像を製作して山上に建てようとしているのである。 ″いかもの”であればあるほど、作品の外形もまたますます威壓的になるのだ(モスコウにもそういう例が多々ある)。藝術でも思想でも、ほどのよい釣合が一切なのである。」 |
この後も、タウトの大観音像批判は止まりません。
「 | 1935年6月17日(月) |
先月、秋田を訪れた際、追分の近藤氏に約束した小文『追分の印象』を書く。 | |
井上氏のお父さんは、高崎附近の山の上に、高さ四十米の大觀音像(鐡筋コンクリート造りで言語道斷な”いかもの”だ)を建てようとしている。その製作費は四萬五千圓だそうである。」 |
日本を去るひと月前の日記でも。
「 | 1936年9月10日(木) |
今年の夏はさんざん勝手な振舞をして、引っ込みのつかなくなった人みたいである。しかし日中はひどく蒸暑くても、夕方の六時になるとすっかり秋めいた涼しさになる。 |
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井上氏のお父さんの建てている山上の大觀音像がほぼ完成した。(高さが四十五米もある)。 この立像は山から降りてくるような姿勢をしている。いずれにせよ紛れもない”いかもの”だ。圖體こそ大きいが、藝術的には極めて弱い。 それでもハンブルクのビスマルク像や、ニューヨークの自由の女神像よりは、まだましだろう。僞りの自由を象徴するこの女神像は、背中を陸の方へ向けているのである。」 |
いやはや、散々な言いようです。
「一宿一飯の恩義」などという言葉は、日本人にしか通用しないのでしょうか。
私の目には、タウトの設計した「旧日向家別邸」だって、相当な「いかもの」のように思えるのですが・・・。
タウトの言葉に引きずられたものかどうかは分かりませんが、日本人の中にも同じようなことを言う人が出てきます。
白石一氏著「一椿斎芳輝」も、冒頭こんな言葉で始まります。
「 | 御丈百三十尺、グロにておはす白衣大觀世音が忽然と出現ましましてから・・・。」 |
また、手島仁氏著「鋳金工芸家・森村酉三とその時代」には、こんなエピソードも記されています。
「 | 昭和二十五年(1950)、作家の村松梢風が雑誌『文藝春秋』(四月号)に掲載した大船観音を論じた文章のなかで、次のように書いたため、高崎市民が猛反発する騒動となった。 |
『・・・果たして現れたのは、仏像も世間に沢山あるが、あれ位怪奇なものは先づ珍しい。 | |
先年高崎市の郊外山上に立ってゐる矢張りコンクリート製の醜怪極まる観音像を数丁離れた所から望見して啞然となり、高崎の人人に対して同情したり、其の無神経さに呆れた事があったが、大船のはまさに是と好一対で、おまけに接近してゐるだけ一層見る者をして竦然たらしめずにはおかない。実に恐るべき妖怪変化である。 |
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高崎はまだしも田舎だから我慢出来るが、大東京の関門ともいふべき東海道線の目貫の場所へあの様な怪物が出現する事は文化どころか、日本人の審美眼の低劣さを暴露して大きな国辱である。・・・。』 」 |
タウトでさえここまでは言わなかった訳で、これには白衣大観音原型制作者・森村酉三の妻・寿々夫人も黙っていませんでした。
親しくしていた江戸川乱歩の紹介状を持って、鎌倉市の村松家へ乗り込み抗議したとあります。
その結果、村松梢風が次のように詫びて一件落着となったそうです。
「 | 車で軽井沢へ行く途中、国道から眺めたとき不調和なほどグロテスクな感じがしたので、筆のついでに触れたことで、美術品の見方は人によっていろいろあり、私の何気なく批判した言葉で作者の遺族や市民、信者の方々の気持ちを損ねたことを深くお詫びする。」 |
ということで、何につけ人のする評価なんて主観的なものです。
次回は、白衣大観音を建立した当の井上保三郎氏の気持ちを探ってみたいと思います。