前回の記事でお話ししたように、山上での水が不便だった観音山ですが、昭和十一年(1936)に白衣大観音が建立され、観光客も多くなって茶店や土産物屋ができ始めると、水がありませんでは済まされなくなってきました。
そこで、何とか麓から山上に水を上げる簡易水道を造ろうということになりました。
麓の「旧福田邸」のすぐ脇に、6m×5m×深さ6mという大きな水槽が造られ、ポンプが設置されました。
いっぽう清水寺の裏山には、ポンプアップされた水を溜めて配水する、配水槽が設けられました。
しかし当時のポンプ能力では、麓から山上まで一気に上げることができません。
「仁王門」のすぐ上にも水槽を造り、いったんそこまで上げてからまた山上の配水槽まで上げるという、二段階方式でした。
山上の配水槽は、今も清水寺の裏山に残されています。

金網フェンスで囲まれたその内側に、一基の石碑が建っています。
中へ入れないので、金網の外から文字を追ってみると、こんなことが刻まれています。
ということで、観音山山上に初めて簡易水道が引かれたのは昭和十四年(1939)で、引き続き昭和十六年(1941)に第二期工事がなされた訳です。
昭和二十九年(1954)、簡易水道は清水簡易水道組合から高崎市に寄付されます。
そして昭和四十二年(1967)に上水道が山上まで引かれ、28年間水を供給し続けた清水簡易水道はその役目を終えますが、山上の受・配水槽は上水道用の「清水配水池」として、今なお、現役で利用されています。
清水寺を訪れた際には、ぜひ「清水配水池」へも足を運び、先人たちの心意気に触れて頂けたらと思います。
そこで、何とか麓から山上に水を上げる簡易水道を造ろうということになりました。
麓の「旧福田邸」のすぐ脇に、6m×5m×深さ6mという大きな水槽が造られ、ポンプが設置されました。
いっぽう清水寺の裏山には、ポンプアップされた水を溜めて配水する、配水槽が設けられました。
しかし当時のポンプ能力では、麓から山上まで一気に上げることができません。
「仁王門」のすぐ上にも水槽を造り、いったんそこまで上げてからまた山上の配水槽まで上げるという、二段階方式でした。


金網フェンスで囲まれたその内側に、一基の石碑が建っています。
中へ入れないので、金網の外から文字を追ってみると、こんなことが刻まれています。
(句読点は迷道院加筆)
「清水簡易水道創設記念碑」 | |
髙﨑ノ勝地觀音山觀光施設宜シキヲ得テ、其名聲一時ニ著聞シ、遠近相傳ヘテ遊覽ノ人士、四季雲集ス。 | |
然ルニ、水利乏シク住民ノ不便甚シキノミナラズ、公衆衛生上懸念スヘキモノ多シ、有志之ヲ憂ヒ、苦心講究簡易水道ヲ設クルノ策ヲ建テ、昭和十三年八月、始メテ清水簡易水道組合を設立シ、髙﨑觀光協會及縣市ノ應援協力ヲ得テ、之カ計畫ヲ樹立シ、工費壹萬五千九百餘圓ヲ以テ、十四年六月其竣成ヲ見タリ。 | |
之ニ於テカ、山上ノ貯水池淵淵清泉ヲ湛ヘ、幾百ノ人家滾滾(こんこん)碧玉ヲ頒(わか)ツ、而シテ尚ホ不時ノ準備トシテ、十五年六月第二水源工事ヲ起シ、工費三千五百圓ヲ以テ十六年五月完成ス、公共ノ爲メ寔(まこと)ニ慶スヘキナリ。 | |
今、之カ記念碑ヲ建テントシ文ヲ予ニ需(もと)ム、乃チ事ノ梗槪ヲ誌シテ其善功ヲ頌シ、兼ネテ、關係員清水簡易水道組合長浦野平六、工事擔當者矢島麟一郎、工事設計並監督落合卯之吉、天野秀、觀光協會役員久保田宗太郎、小林竹次郎、天田瀧治、吉野五郎、秋山萬吉、高橋藤三郎、清塚佐太郎、西村助四郎、星野幸衛、石坂實、係員中島徳次郎、松本民吉諸氏ノ芳名ヲ録スト云爾(しかいう)。 | |
昭和十六年五月 三雲逸史 關吉晴選傡書 |
ということで、観音山山上に初めて簡易水道が引かれたのは昭和十四年(1939)で、引き続き昭和十六年(1941)に第二期工事がなされた訳です。
昭和二十九年(1954)、簡易水道は清水簡易水道組合から高崎市に寄付されます。
そして昭和四十二年(1967)に上水道が山上まで引かれ、28年間水を供給し続けた清水簡易水道はその役目を終えますが、山上の受・配水槽は上水道用の「清水配水池」として、今なお、現役で利用されています。
清水寺を訪れた際には、ぜひ「清水配水池」へも足を運び、先人たちの心意気に触れて頂けたらと思います。
【清水配水池】