
高崎にも「成田山光徳寺」がありますが、これは明治十年(1877)に高崎が働きかけて、出張所を開設したものだそうです。
過去記事「北の遠構え」の中にも書いたのですが、「新勝寺」の賑わいにあやかりたいと思ったのでしょう。
開設した当時は、狙い通り賑わったようですが、今はひっそりしています。
境内やその周辺には、面白いものや面白い話が沢山残っているのに、何とも勿体ない思いがします。

ご覧のように、亀さんまで、押すな押すなの大騒ぎです。
その本家も、江戸時代までは参詣客も少ない寂れた寺院だったようで、「来ないんなら、こっちから行くか。」ってな具合で、「出開帳」といって、わざわざ江戸までご本尊の不動明王を担いで行って、出張開帳してたんだとか。
その成田山が俄かに賑わうようになったのは、何と言っても初代・市川團十郎のおかげのようです。
子供に恵まれなかった團十郎が成田山に祈願したところ、翌年めでたく子宝を授かったというので、その報恩のために江戸で上演した「成田不動明王山」が大当たり、以来、成田山は参詣客で大賑わいとなる訳です。

要は、どうやってその舞台に選んでもらうかという、知恵とご縁の結びつきということでしょうか。

二宮金治郎が、三・七・二十一日の断食・水行をしたという道場です。
小田原藩主・大久保忠真の命を受けて、下野国桜町(現・栃木県芳賀郡二宮町、真岡市)の経済立て直しに取り組んだ金治郎ですが、農民や小田原藩士の無理解と妨害に、行き詰まってしまいます。
富田高慶著「報徳記」では、こんな風に記しています。
「 | 心力を労し此の邑(むら)を興し此の民を安んぜんとして旧復の道を行ふこと既に数年、道理に於ては必定旧復疑ひなしといへども、奸民(かんみん)之を妨げ、且(かつ)我と事を共にする所の吏(り)も亦(また)各偏執疑惑を生じ、終(つい)に讒訴に及べり。 |
内には我が事を傷(そこな)ふの妨(さまたげ)あり、外には侫奸(ねいかん)の民之(これ)と与(くみ)して我が事業を破るの憂あり。 | |
此の如くにして三邑(ゆう)を興復せんこと其(その)期を計る可(べか)らず。嗚呼(あゝ)我能(あた)はずとして退かんことは易しと雖(いえど)も、君命を廃するを如何(いかん)せん。 | |
顧(おも)ふに我が誠意の未だ至らざる所なり。」 |
普通なら、「俺はお前たちのために頑張ってるんだ。それを何だ!」と言いたくなるところですが、金治郎さんは「妨害を受けるのは、自分の誠意がまだまだ足らないからだ。」と言うんですから、そんじょそこらの人とは違います。
そして、わが身の修行に入ります。
「 | 三七二十一日の断食をなし、上(かみ)君意を安んじ下(しも)百姓を救んことを祈誓し、日々数度の灌水を以て、一身を清浄ならしめ祈念昼夜怠らず、二十一日満願の日に至りて其の至誠感応・志願成就の示現を得たりと云ふ。」 |
これだけでも驚きますが、この後がさらにすごいのです。
「 | 満願に及びて始め粥を食し、一日にして二十里の道程を歩行し桜町に帰れり。 |
衆人驚歎して曰く、如何なる剛強壮健の人なりと雖(いえど)も三七日の断食身体疲労を以て僅かに数里の歩行も難かるべし。況(いわ)んや二十里をや。是平常の測り難き所なりと。」 |
この荒業を終えたその日に、粥を一杯すすっただけですぐ桜町に戻った金治郎の姿に、人々の心持ちは変わり、尊敬の念へと変わっていくのです。
「 | 是より以来邑民(ゆうみん)自然其の徳行に感じ、小田原出張の吏も亦(また)私念挫折、良法の尊き所以(ゆえん)を発明し、内外の妨害解散、実業始めて発達することを得たり。」 |
今、欲しいと思うリーダーですね。
さて、千葉の旅は続きます。
二宮金治郎について興味の湧いた方は、とりあえず、こちらをご覧ください。
◇控帳 「二宮金次郎 天保の大飢饉を救う」
我慢強い方は、こちらもどうぞ。
◇「隠居の控帳」