いよいよお正月まであと一日です。
いろいろなことがあった年でしたが、穏やかに暮れ、穏やかに明けて欲しいものです。
さて、本年最後の鎌倉街道です。
「和田宿古繪圖」によると、鎌倉街道は「金井宿」から「二ノ宮」の角で西に折れ、烏川に向かっています。
でも、現在この辺りに「二ノ宮」と呼ばれる所はありません。
どこなんでしょう。
寛政元年(1789)に高崎藩士・川野辺寛(かわのべ・かん)が著した「高崎志」には、このような記述があります。
宝永七年(1710)時代の復元図を見ると、「榎廓」の中に鳥居が描かれています。
おそらく、これが「二ノ宮」なのでしょう。
現在のTSネットワーク高崎流通センター敷地内の北側、高松中学校のグランドに近い辺りにあったようです。
昭和二年(1927)発行の「高崎市史」によると、「二ノ宮」は明治五年(1872)兵営設置の際に、熊野神社(現・高崎神社)に遷したとあります。
同「高崎市史」に、この辺りの鎌倉街道について割合詳しく記述されています。
これによると、鎌倉街道は左図の赤線のような感じで通っていたと思われます。
和田城時代は街道の西側(図では上側)が城域だったのですが、井伊直政が造ろうとする高崎城の計画では、街道とそこにある「和田宿」が城域に入ってしまうことになります。
そこで、宿場をそっくり移設することになりますが、そこが現在の「本(もと)町」となるわけで、「高崎志」には、このように書かれています。
この時に、「赤坂大明神」も本町の札の辻(高札場)のところに遷し、小石祠を置いて市神(いちがみ)としたと言われているのですが、
と、川野辺寛は嘆いています。
高崎という町は、昔からこういう風土なんでしょうか。(笑)
ということで鎌倉街道は消えてしまいましたので、迂回をしていきましょう。
「もてなし広場」前の道を北へ進みます。
信号を渡ると、NTT東日本群馬支店の素敵な花壇が目に留まります。
嬉しい心遣いですね。
その先には、平成二年(1990)高崎市との「姉妹都市※サミット」が行われるのを機に造成された、「姉妹都市公園」があります。
園内に建つ「姉妹都市公園建設の経緯」という小さなプレートには、なかなか興味深いことが刻まれています。
この場所が、高崎城の「子(ね)の門」近くに位置した武家屋敷であったとあります。
昔の高崎城絵図を見ると、堀と本丸との間に、びっしりと「士屋鋪(さむらいやしき)」が配置されているのが分かります。
その「子の門」跡へ行く前に、ちょっと寄り道してご紹介したいところがあります。
どうです、いい雰囲気でしょう?
アーチ型のトンネル、実は「からたち橋」という橋の橋脚なんです。
からたち橋の記
高松町を巡る史跡の土塁は
昔は城の鬼門に当り
柳橋がなくて土塁が続いていた
今の土塁は緑と土の香りを楽しむ遊歩道なので
石橋でつなぎ城に植えてあった、からたちを橋の名とした
平成六年三月
昔はなかったという「柳橋」側から見ると、こんな感じです。→
「鬼門」を開けてしまったので、その代わりということでしょうか、石橋のアーチには「鬼」という字が刻まれています。
いやー、高崎のお役所にも、なかなか粋な人がいたんですねー。
石橋の上の遊歩道には、橋名の由来となった「からたち」が、鋭い棘を突き出しています。
土塁上の散歩を楽しむ方は、くれぐれもお気をつけ下さい。
取材した日(12月9日)は、土塁上の楓が、まだきれいに色づいていました。
子どもの頃、棒切れを振り回しながら、ここを駆けずり回っていたことを、懐かしく思い出しました。
そういう風景がまだ残っていたことに感謝しつつ、本年はここまでと致します。
いろいろなことがあった年でしたが、穏やかに暮れ、穏やかに明けて欲しいものです。
さて、本年最後の鎌倉街道です。
「和田宿古繪圖」によると、鎌倉街道は「金井宿」から「二ノ宮」の角で西に折れ、烏川に向かっています。
でも、現在この辺りに「二ノ宮」と呼ばれる所はありません。
どこなんでしょう。
寛政元年(1789)に高崎藩士・川野辺寛(かわのべ・かん)が著した「高崎志」には、このような記述があります。
「 | 赤坂大明神ノ旧跡ハ榎廓ノ内也、昔ハ此地ヲ榎ノ森・赤坂山ト云フ、赤坂ノ総鎮守也、社今ハナシ、土人ノ説ニ、寛元年中和田義信相州三浦ノ二ノ宮ヲ赤坂明神ノ社地ニ勧請スト云リ・・・」 |
宝永七年(1710)時代の復元図を見ると、「榎廓」の中に鳥居が描かれています。
おそらく、これが「二ノ宮」なのでしょう。
現在のTSネットワーク高崎流通センター敷地内の北側、高松中学校のグランドに近い辺りにあったようです。
昭和二年(1927)発行の「高崎市史」によると、「二ノ宮」は明治五年(1872)兵営設置の際に、熊野神社(現・高崎神社)に遷したとあります。
同「高崎市史」に、この辺りの鎌倉街道について割合詳しく記述されています。
「 | 赤坂ノ荘ノ時代ヨリ和田宿ト稱セシ時ノ街道ニシテ、其通路ハ碓氷峠ヨリ烏川ヲ越ヘ、今日里俗ニ云フ、坊主山ト稱スル小丘アリ(舊ノ御馬出シ土手ノ遺趾ナリ)是レヨリ後世建テラレシ赤坂門、二ノ宮ノ側ニ上ル、・・・」 |
これによると、鎌倉街道は左図の赤線のような感じで通っていたと思われます。
和田城時代は街道の西側(図では上側)が城域だったのですが、井伊直政が造ろうとする高崎城の計画では、街道とそこにある「和田宿」が城域に入ってしまうことになります。
そこで、宿場をそっくり移設することになりますが、そこが現在の「本(もと)町」となるわけで、「高崎志」には、このように書かれています。
「 | 本町ハ、高崎根本ノ町也、慶長三年(1598)戊戌(つちのえ・いぬ)中山道啓ケ、和田ニ城ヲ築カレシ時、金井宿、馬上宿ヲ此地ニ移シテ一町トス、城下ノ根本ナルを以テ本町トハ名ケシトゾ・・・」 |
この時に、「赤坂大明神」も本町の札の辻(高札場)のところに遷し、小石祠を置いて市神(いちがみ)としたと言われているのですが、
「 | 偏ク(あまねく)里老(りろう)巫覡(ふげき:祈祷師)ニ問フニ知者ナシ、夫(それ)赤坂明神ハ此郷ノ鎮守ナルヲ、今ハカク衰廃シテ所祭ノ神サヘ知人ナシ。」 |
高崎という町は、昔からこういう風土なんでしょうか。(笑)
ということで鎌倉街道は消えてしまいましたので、迂回をしていきましょう。
「もてなし広場」前の道を北へ進みます。
信号を渡ると、NTT東日本群馬支店の素敵な花壇が目に留まります。
嬉しい心遣いですね。
その先には、平成二年(1990)高崎市との「姉妹都市※サミット」が行われるのを機に造成された、「姉妹都市公園」があります。
※ | (米国)バトルクリーク市 |
(ブラジル)サントアンドレ市 | |
(中国)承徳市 | |
(チェコ)ブルゼニ市 |
園内に建つ「姉妹都市公園建設の経緯」という小さなプレートには、なかなか興味深いことが刻まれています。
この場所が、高崎城の「子(ね)の門」近くに位置した武家屋敷であったとあります。
昔の高崎城絵図を見ると、堀と本丸との間に、びっしりと「士屋鋪(さむらいやしき)」が配置されているのが分かります。
その「子の門」跡へ行く前に、ちょっと寄り道してご紹介したいところがあります。
どうです、いい雰囲気でしょう?
アーチ型のトンネル、実は「からたち橋」という橋の橋脚なんです。
からたち橋の記
高松町を巡る史跡の土塁は
昔は城の鬼門に当り
柳橋がなくて土塁が続いていた
今の土塁は緑と土の香りを楽しむ遊歩道なので
石橋でつなぎ城に植えてあった、からたちを橋の名とした
平成六年三月
昔はなかったという「柳橋」側から見ると、こんな感じです。→
「鬼門」を開けてしまったので、その代わりということでしょうか、石橋のアーチには「鬼」という字が刻まれています。
いやー、高崎のお役所にも、なかなか粋な人がいたんですねー。
石橋の上の遊歩道には、橋名の由来となった「からたち」が、鋭い棘を突き出しています。
土塁上の散歩を楽しむ方は、くれぐれもお気をつけ下さい。
取材した日(12月9日)は、土塁上の楓が、まだきれいに色づいていました。
子どもの頃、棒切れを振り回しながら、ここを駆けずり回っていたことを、懐かしく思い出しました。
そういう風景がまだ残っていたことに感謝しつつ、本年はここまでと致します。
【「二ノ宮」があった場所(推定)】
【姉妹都市公園】
【「からたち橋」と「柳橋」】