2022年10月29日

高崎唱歌散歩-13番 ♪それより鍛冶町檜物町・・・

夫れよりかぢ町(鍛冶町)檜物町
鞘町過ぎて中紺屋
寄合町に新紺屋
寄せ(寄席)に芝居に勧工場(かんこうば)

高崎の町なかには、井伊直政が高崎城を造って箕輪から移った時に、職人ごと移した町がいくつかあります。
歌詞に出てくる鍛冶町・紺屋町・鞘町もそうで、城に近い場所に配置されています。


田島桂男氏著「高崎の地名」に、それぞれの町のことが分かりやすく書かれています。
鍛冶町
かじちょう
この町は、高崎に城下町ができはじまったときからの職人町で、実は箕輪から職人とともに町の名前まで移って来た町である。
慶長年間のこの街の住人は全て刀工、鍛冶職人であった。
檜物町
ひものちょう
町名はこの町に「桧物師」が多く住んでいたことによる。「桧物」とは、ヒノキ、マツ、サワラなどの薄い板を曲げて作る「曲げ物」のことで、これは、食器や勝手用品として欠かせないものであった。
鞘町
さやちょう
慶長年間、井伊直政による箕輪からの移城とともに、城下にいた様々な人たちも、新生高崎へ移って来た。
この町へは、刀の鞘をこしらえる鞘師が多く住んだので「鞘町」の名がつけられた。
中紺屋町
なかこうやまち
この町も古くは紺屋職人の多い町であった。「中」は「元」と「新」の「紺屋町」の中間に位置していたことからつけられた名で、古くは「三紺屋」とも、ひとつの「紺屋町」を作っていた。
寄合町
よりあいちょう
町名は、いろいろな職人、商人が入り混じって居住していたのでつけられた名で、慶長三年(1598)井伊直政の箕輪から高崎への移城にともない、八戸が藩の許可を受けてここへ移住した。
新紺屋町
しんこうやまち
この町は、城とともに箕輪から移転してきた職人や町人が多く住んだが、中でも紺屋職人が多かった。
町名は、「元紺屋」に対する「新紺屋」の意味でつけられた。

それぞれの町に、どのような職種の人がいたのかをまとめて下さった方もいます。

これを見ると、「中紺屋町」の方がより「寄合町」っぽい感じですが。

さて、「寄席に芝居に勧工場」「寄席」ですが、大正六年(1917)発行の「高崎商工案内」に、こうあります。
寄席としては嘉多町に睦花亭あるのみ、明治三十一年(1898)に創立されたる松田亭より引續ぎたるものにして現在は吉田喜平治氏の經營なり。」
「松田亭」「睦花亭」に改名したのは明治四十四年(1911)頃、閉館になったのは昭和の初めらしいです。
(新編高崎市史 通史編4)
場所が嘉多町となっていますが、資料によって異なります。

明治三十七年(1904)発行の「群馬県営業便覧」には「席亭 松田」として載っているのですが、柳川町のようでもあり、どうも場所がはっきりしません。


昭和二年(1927)発行の「高崎市史 下巻」では新紺屋町になっています。
「睦花亭(寄席) 新紺屋町」
寄セ席トシテハ、外ニ鞘町ニ共樂館ト偁セシモノアリシガ夙ニ閉場シ、今日僅カニ此ノ一亭アルノミ、

次の「芝居」については、「高崎商工案内」「劇場」として書かれています。
高崎市における劇場としては株式会社高崎高盛座(八島町)及び藤守座(新紺屋町)の二あり、前者の創立は明治三十七年(1904)後者は明治十三年(1880)の創立にして藤守座は藤守文衞氏の經營なり。」

「藤守座」の場所はここです。


「藤守座」は、その後何度かの変遷を経て、映画館「オリオン座」になります。


その「オリオン座」も平成十五年(2003)に閉館し、長らく廃墟のような姿になっていました。


ところが嬉しいですねぇ、去年カフェに生まれ変わったと言うじゃありませんか。



最後が「勧工場」です。
「高崎の散歩道 第十二集下」に吉永哲郎氏が書いたものを引用します。
明治十年(1877)東京で第一回内国勧業博覧会が開かれた。
明治政府の殖産興業の実をあげるためのものであった。
後、大阪に勘商場、東京に勧業場が設けられ、見本展示即売の店が出現した。
こうした今日のショッピング・センターの形式の店舗が明治三十年代に全国に普及し、高崎にも本町の小保方商店の隣の足袋商西山と菓子製造峰村利三郎商店との間に、「勧工場」が出現したのである。明治二十二年(1889)のことであった。
買い物をする楽しさを庶民が知り始めるきっかけになったのである。
一般には本町の勧工場より、現在の東宝劇場の入口の右にあった勧工場が親しまれていた。」



「東宝」か、懐かしいな。
夜8時くらいから「ナイトショー」なんてのがあって、一本だけの上映なので安く観られて、父がよく連れて行ってくれたっけ。
帰りには、すぐ前の「さまた食堂」でラーメンを食べて。
でも、いま思うと、母が一緒だったことってほとんど記憶にないなぁ。
きっとお金がなかったんだろうな。
あ、涙が出てきそう。
今日はここまで!


  


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2022年10月22日

高崎唱歌散歩-12番 ♪宮元町の東なる・・・

宮元町の東なる
下横町に向雲寺
白龍山の興禅寺
和田の七騎の墓所

「下横町」は、江戸時代には新町(あらまち)の一部で「下ノ横町」と言われていたが、明治十年(1877)城主のための栽園であった「前栽町」を併せて新町から分離独立したそうです。(田島桂男氏著「高崎の地名」)



「向雲寺」については、過去記事をご覧ください。

「興禅寺」についても過去記事があるのですが、「和田の七騎の墓所」とは知りませんでした。

まず「和田の七騎」ですが、七騎と聞いて思い付くのは「矢中七騎」です。
両者は違うのか同じなのか、いくつかの書籍を見てみましたが分かりません。
かくなる上はと、図書館の司書さんにお力を借りることにしました。
すると流石、「上野国郡村誌」に答えがあると教えて頂きました。

明治十六年(1883)頃編纂された「上野国群馬郡邨志 巻十一」(昭和五十六年発行「上野国郡村誌6群馬郡(3)」)「矢中村」の項に、こうありました。
天正三年乙亥五月遠州長篠ノ役、和田ノ城主和田右兵衛太夫信業、武田勝頼ノ為ニ鳶巣ヲ守ル、
徳川氏ノ将酒井忠次ト戦ヒ大敗して従兵或ハ死シ或ハ創(きずつ)キ、信業殆ト免(まぬが)レス、
信業ノ臣松本九郎兵衛、真下下野、大沢備後、秋山縫殿亮、栗原内記、福島嘉兵衛、長島因幡七騎、苦戦捍護(かんご:防護)僅ニ和田城ニ帰ヲ得ル、
勝頼大ニ感賞シ、退口七本槍ト称シ、又和田七騎ト称ス、其名遠邇(えんじ:遠近)ニ震フ、
信業其戦功ヲ賞シ、矢中村千八百五拾八石五斗余ノ地ヲ七騎ニ賜フ、世因テ矢中七騎ト称スト云フ、
其裔孫今猶村中ニ存スル者アリ」

なるほど、傷ついた和田信業(業繁?)を退却させるために踏みとどまって戦ったので「退口七本槍」、あるいは「和田七騎」と呼んだのが武田勝頼で、褒美として矢中村の土地を与えたので、世の人達は「矢中七騎」と呼んだという訳ですか。

「矢中七騎」の何人かの屋敷跡は、調査・推定されています。

大沢備後の屋敷跡には、「大澤備後守定吉誕生屋敷跡」碑というのも建っています。

そして「矢中七騎」の墓については、「群馬郡西部村志 巻八」(「上野国郡村誌5 群馬郡(5)」)「興禅寺」の項に記載がありました。
境内墓地ニ和田氏及ヒ同旗下七騎ノ墓ト称フル五輪塔数基アリ、文字剥落シテ見ヘカラス」

その見えからぬ文字を読もうとした人が土屋補三郎(老平)です。
明治十五年(1882)に著した「更正高崎旧事記 四巻」「下横町 興禅寺」の項に、こう書いています。
老平云、当寺三昧所和田氏ノ古墳石塔アリト里老口牌ニモ云伝フ。
予是レガ石塔ニ文字アリ磨滅シ読得ルアタハズ。サレドモ文字ノ形チ有リ、古苔ヲ払ヒ水モテ洗ヒミルニ其文字石塔下台ニアリ
前住当山 桂堂和尚 宝徳三年 三月念三日
☐☐三☐ ☐☐☐☐ 時永禄☐☐ 八月廿三日
叟妙☐大 ☐☐☐☐ 時天正三年 十月九日
石塔七基ノ内三基ノ文字如此 桂堂和尚ハ東谷院主ニテ 他二基ハ年号ノミヨク顕レタリ。
(さて)其年月日ニテモ其某ヲ知ラント欲スルニ由ナシ。
然レハ和田氏族ノ墳墓ト一向ニ言テ止ベキ歟(か)。」
七基の内三基の石塔は読める文字もあったが、桂堂和尚以外は誰の墓石か分かりようもなかったと言います。
最後の一節はよく分かりません。「和田氏族の墓だと言われれば仕方ないか。」ということなのでしょうか。

その石塔は興禅寺「三昧所」(さんまいしょ)にあると書いてあります。
「三昧所」というのは、死者の冥福を祈るために墓地の近くに設けた堂のことだそうです。
「高崎志」(寛政元年(1789)川野辺寛著)にその場所が書いてありました。
 「地蔵堂 和田七騎卵塔
地蔵堂ハ出端ノ木戸外ノ左ニアリ、興禅寺ノ三昧場也、堂八間三間、瓦葺、本尊地蔵ノ木像ヲ安ズ、享保十三年建立ト云リ、
堂ノ西ニ墓所アリ、和田氏及臣下七騎ノ墓トテ古キ五輪アリ、文字見ヘス

というので、興禅寺「地蔵堂」へ行ってみましたが、それらしいものはありません。
興禅寺の墓地は全て「八幡霊園」へ移されているので、そっちにあるのかと思って行ってみました。

が、どれがそうなのかよく分かりません。

そしたら、昭和二年(1927)発行の「高崎市史下巻」興禅寺の項に、こんな記述があるじゃありませんか。
高崎志其他ニ和田七騎ノ墓アリト云フモ今日ハ全クナシ」
あ、なんだ、今は無いんだ。

下之城「徳昌寺」には、「和田一族の墓」と伝わるのはあるんですけどね。



ないのかなぁ、「七騎」の墓。


  


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2022年10月15日

高崎唱歌散歩-11番 ♪十五連隊戍衛地は・・・

十五連隊戍衛(じゅえい)地は
松風清き高松町
昔ゆかしき城跡に
朝夕聞ゆラッパの声(ね)

「戍衛」「戍」「武器を持って国境をまもる兵。また、屯(たむろ)=守備兵の詰めている所」のこと。
「衛」「城や門を守る人・組織」のことで、軍隊が駐屯する土地を「戍衛地」あるいは「衛戍地」というようです。

高崎城跡が軍隊の戍衛地になったのは、根岸省三氏著「高崎の明治百年史」によると明治六年(1873)説と明治八年(1875)説があるようですが、フランス人医師ヴィダルの旅行記「江戸から新潟への旅」に、明治六年に高崎城内でフランス式の訓練をしている軍人の一団のことが書かれていますので、六年説が正しいのでしょう。

その頃の、まだ高崎城天守閣「御三階櫓」が残っている営内の写真です。


営内に駐屯する軍隊の呼称は度々変わるのですが、馴染みのある「十五連隊」という呼称はいつから始まったのかというと、明治十七年(1884)でした。
正式名称は「陸軍歩兵第十五連隊」です。
当時の兵員数は下士50人、兵卒306人とあります。

明治二十三年(1890)には1,449人に増えていますが、長野県出身の人が多かったんですね。


「十五連隊」は後の日清・日露戦争で乃木将軍の指揮下に入りますが、「高崎の明治百年史」にこんなことが書かれています。
高崎連隊と乃木希典将軍との関係はなかなかに深く、将軍は始めて高崎に兵営が設けられ高崎鎮台の分隊と称せられた明治十七年頃(?)に来任し、高崎市高砂町の某家に下宿しておられ、また日露戦役の際には、将軍の令息勝典、保典の両名が高崎連隊付として出征し、旅順港激戦で戦死されている。」
「高砂町の某家」とはどこなのか、気にはなりますが分かりません。

現在「乾櫓」が建っている右側が、兵営の「正門」でした。


「正門」は初め高崎城の「大手門(追手門)」の場所(下図3⃣)でしたが、営内が見通せてしまうというので少し南へ移動させたようです。(下図4⃣が「乾櫓」)


石垣の上に立派な松の木があり、その根方には「飛龍松之記」という石碑が建っています。



碑にはこう刻まれています。
飛龍松之記
明治二十六年秋於髙﨑近郊
有近衞師團小機動演習之擧
天皇陛下親臨閲之
後行觀兵式於此地
干時十月二十二日也
於是植一松樹以標駐驛之跡
傳之永遠号曰飛龍松
歩兵第十五聯隊長 
河野通好撰併書

と言うのですが、ここに立つ松の木はどうやら「飛龍松」ではないらしいのです。
「高崎の明治百年史」に、こうあります。
(飛龍松)の位置は第三大隊の前庭で(現第二中学校と、裁判所との堺のあたり)ここに後年碑が建てられた。
この碑は現在は、連隊跡の解放によって、連隊の外堀の土堤、旧営門右側のその上に移されていて、そこに古来からある大松があり、あたかもその松が飛龍の松の如き感じを与えるが、飛龍の松は既に枯れてない。」

ということで、本当の「飛龍松」はここにあったようです。

今ある松は正しくは「大手の松」と言うそうです。
でも、ま、いいでしょう、「飛龍松」で。

旧高崎城内は明治十年(1877)「高松町」と定められました。
町名の由来について、昭和二年(1927)発行の「高崎市史」では「有名ナル露ノ松ヲ記念センタメ命ゼシナリ」となっています。
「露の松」というのは、城内にあった不思議な松の木のことで、寛政元年(1789)川野辺寛著「高崎志」にこう書かれています。
梅雨(露)松ハ 二(ノ)丸北方ノ土居上ニアリ  古木ニシテ枝ヲ垂ル 入梅節ニ至レバ其葉黄ニ變シテ枯ルガ如シ 出梅ニ及テ靑葱(せいそう:青々と茂ること)ニ復(もど)ル 故ニ土俗梅雨松ト名ツク」
梅雨に入ると葉っぱが黄色く枯れたようになって、梅雨が明けると青々となるというんですね。
面白い話ですが、いつ枯れるか分からないような松の木を町名の由来とするというのも、どうなんでしょう。
現に「高崎市史」にも「明治ノ初年全ク枯死ス」と書いてあるんですから。

「高崎市史」よりずっと前、明治十五年(1882)に土屋補三郎(老平)が著した「更正高崎旧事記」(こうせい・たかさき・くじき)には、こう書かれています。
高松ノ名称ハ、松ハ延齢ノ木ニテ疆(きょう:限り)ナキヲ祝ヒ、以テ松ノ名ニ高ヲ冠ラシムハ高ハ大イナル意ニアレバ也。
又松ハ松平氏ノ領セシ城ノ名残アリテ、是モ由アルナリ。(略)
往古当地ヲ松ガ崎ト称セシ旨伝承アリ、且高崎ノ高ノ一字ヲ取、高松町と号クル也。」
こちらの方が納得できそうですね。

「もてなし広場」の北西角に、もう一つ「十五連隊」に関する松があります。

昭和九年(1934)の陸軍大演習に於いて、天皇陛下が営内で講評したのを記念して植えた松で、「振武松」というんだそうです。

昭和四十三年(1968)に建てられた「十五連隊」の顕彰碑が、音楽センター前広場にあります。

「明治百年」の記念として建てられたものらしく、「十五連隊」の戦歴がズラズラと刻まれています。

もうひとつ、昭和五十一年(1976)に建てられた「歩兵第十五聯隊趾」碑もあります。

その根元の「趾碑之由来」碑にも、「顕彰碑」よりもさらに詳しい戦歴が刻まれていますが、その末尾に刻まれている言葉が心を打ちます。
憶えば 此の地に兵営が創設されて七十二星霜 この間練武の貔貅(ひきゅう:勇ましい兵)三十数万 華と散った英霊実に五万二千余柱の多きを算(かぞ)え 寔(まこと)に痛恨の極みである
茲に県内外の関係者相寄り相議(はか)り 嘗ての正門歩哨の位置に 聯隊創設の日を卜(ぼく:良し悪しを判断)し 上毛の銘石を副えて趾碑を建立 史実の一端を録し 祖国鎮護の礎石となった英魂を慰め その往昔を偲び 以て戦禍の絶無と揺るぎなき人類の平和を冀求(ききゅう:強く願い求める)し祈念する」

私も、心から冀求、祈念します。


  


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2022年10月08日

高崎唱歌散歩-10番 ♪明治三十七八年・・・

明治三十七八年
日露戦役記念園
其外(そのほか)高崎裁判所
学校市役所ある処

前回9番の歌詞の最後は「大手前の広小路」でした。
「大手前」は高崎城大手門(追手門)前のことで、連雀町との喰い違い木戸内側の広場でした。
明治四十三年(1910)の図では15連隊の「営門」となっていて、その前の道路はまさに「広小路」です。

「営門」前の三角部が「日露戦役記念園」です。

下の写真で玉石垣に囲まれている所がそうです。


記念園の中には戦歿慰霊碑とか戦利品とかがあったんでしょうか。
別角度から撮影されてる写真で見てみましょう。


ちょっと分からないですね。

「日露戦役記念園」が、なぜここに設けられたのか。
「新編高崎市史 通史編4」にそれをうかがわせる記述があります。
明治三十七年(1904)の「坂東日報」によると、五月二十五、二十六日にかけての、十五連隊緒戦の南山の戦闘で、これを占領した翌日に、市民有志の「高崎源兵隊」の提灯行列が行われている。
さらに高崎市主催の大祝勝会は「旅順陥落の日を待て之を行う筈なり」と付記されている。
五月十七日号には「高崎の提灯行列順序」と題する記事がみられ、「高崎市にては、本日一大提灯行列を挙行すべく既にその準備に着手した」と報じた。
旅順陥落を待っての祝賀行進の準備は、市長を委員長に、各町組長を委員として進められた。
各町は先頭に提灯を立て、隊列には女子と十六歳未満のものは除く、などの規則も定められ、十五連隊営門前広場を集合地として、市内を一巡するコースと市内四十八町の行列順序も設定され、旅順陥落、その時を待つばかりとなった。」
ということで、大祝勝会の集合場所を記念して造ったのが「記念園」だったのでしょう。
祝勝会の陰で、十五連隊の将校65人、下士以下1,690人、そして戦病者191人の命が失われました。

「日露戦役記念園」の後ろにあるのが「裁判所」です。


明治四十三年(1910)発行の「高崎案内」には、
創設當時は高崎商業学校前の空地、即ち陸軍省用地の處にありて高崎區裁判所と稱す。
明治十年(1877)十二月今の處(現スズランの所)に新築移轉して熊谷裁判所前橋區裁判所高崎支部と稱す。
二十三年(1890)十一月前橋地方裁判所高崎支部を設置せらる。(略)
現廳舎は明治三十年(1897)中、東京下谷區二長町區裁判所を移轉建造する者也。」
とあります。


しかしこの庁舎は大正四年(1915)失火により全焼し、翌年再築されています。
ところがこの庁舎も昭和二十年(1945)八月十四日の空襲によってまたもや焼失し、戦後再建されます。
私の記憶に残っているのは、その建物でしょう。
ついぞ門の中へ入ることはありませんでしたが、威厳を感じさせる門構えと木造の建物でした。

その「裁判所」も、昭和三十九年(1964)高松町の現在地に移転し、跡地は昭和四十三年(1968)「スズラン百貨店」になりました。
その「スズラン百貨店」も、令和六年(2024)にはリニューアルされるそうですね。


最後の歌詞、「学校市役所ある処」「学校」「市役所」はここにありました。


詳しくは、過去記事をご覧ください。
  ◇史跡看板散歩-14 高崎小学校跡(その1)
  ◇高崎町役場と町奉行所

あぁ、明治もだけど、昭和も遠くなったなぁ・・・。


  


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2022年10月01日

高崎唱歌散歩-9番の続き ♪池水澄みて魚躍る・・・

公園出でて宮元町
堀べに沿ふて右左
池水澄みて魚躍る
大手前の広小路

「池水澄みて魚躍る」ってのがよく分からないんですよね。
大手前に池があったという話は聞かないし、「お堀」の水が澄んでたという記憶もないんですけど、「高崎唱歌」がつくられた頃は澄んでたんでしょうか。
フナとかクチボソはいましたね。ザリガニもいてよく釣って遊んでました。

今は切り通しの所のお堀を覗くと、エサをもらえるとでも思うのか、沢山の鯉が集まってきます。


税務署と労基局の間を抜けた所は、高崎城の「巽(辰巳)門」で、15連隊時代も営門として使われていました。


シンフォニーロード開通によって、今は跡形もありません。


でも橋の名前に、「辰巳」の名称が残っています。


「高崎唱歌」の頃、ここには学校がありました。

明治三十年(1897)の地図では「発育学校」、大正五年(1916)の地図では「国振学校 深井幼稚園」となっています。

「発育学校」とは聞き慣れない名前ですが、福沢諭吉「文明教育論」の中にこんな一節があります。
学校は人に物を教ふる所にあらず、唯其天資の発達を妨げずして能くこれを発育する為の具なり。
教育の文字甚だ穏当ならず、宜しく之を発育と称すべきなり。
斯の如く学校の本旨は所謂教育にあらずして、能力の発育にありとのことを以て之が標準となし、顧て世間に行はるる教育の有様を察するときは、能く此標準に適して教育の違はざるもの幾何あるや。
我輩の所見にては我国教育の仕組は全く此旨に違へりと言はざるを得ず。」
「教育」でなく「発育」であるべきだというのですね。

この言に賛同したのでしょうか、高崎の教育者・深井仁子が明治十五年(1882)に設立したのが、私立の「発育学校」でした。
貧しい家庭の子どもを受け入れたので「貧乏学校」とも呼んだようです。
「高崎の散歩道 第十二集下」に、こんな記述があります。
明治の小学校ができた頃、誰もがよろこんで通学したのではなかった。
親の中には働手がなくなるとして反対する者もいた。小学校へゆけることは贅沢な家庭と考えられてもいた。
この深井学校は、小学校へあまりゆかない子弟を中心の学校であった。
家塾のような学校で、障子には、生徒が何度も練習した習字の半紙がはってあったという。
真っ黒の障子である。
深井先生も決して楽な生活ではなかったようだ。」

「発育学校」は、明治三十五年(1902)「国振(くにふり)学校」と改称します。
発育(教育)が国を振興させるという考えなのでしょう。
さらに明治四十年(1907)には学校の一階部分を使って「深井幼稚園」をも開園します。

深井仁子は大正七年(1918)に他界し養女のダイが後を継ぎますが、そのダイも大正九年(1920)に他界し、学校と幼稚園は廃滅してしまいます。
現在、観音山清水寺の石段に深井仁子の顕彰碑が建っています。過去記事をご覧ください。

その学校の相向いに「教会堂」「高崎教会」というのがあります。


ここは、明治十七年(1884)「西群馬教会」として設立され、明治二十五年(1892)頃「高崎教会」と呼ぶようになりました。


設立当初、信者数は増加していきますが、明治二十五年(1892)頃から急激にその数が減少します。


その理由が「新編高崎市史 通史編4」に書かれています。
このころ教会にとって大変な時期であった。
神道・仏教勢力によるキリスト教演説会や教会での信徒集会・礼拝への嫌がらせや妨害が相次ぎ、特に高山照光なる人物とその一味によって続けられてきた高崎教会への妨害は、ついに二十一年四月一日の夜の集会で、高山一味と扇動された一部聴衆による、会堂内の器物損壊事件に発展した。
高山は警察によって逮捕されたが、教会員や家族に大きな不安を与えた。
高山の背後関係ははっきりしないが、高山は「耶蘇退治神道大幻灯会」などを開催しているので、「大物」神官の関与も否定できない。」

市史では「大物神官」としか書かれていませんが、「高崎教会百年小史」でははっきり氏名が書かれています。
高山照光は高井東一等と共謀して、耶蘇教退治神道大幻燈会という会を二箇所の寺院で開き、我等の名を指し、図を示して、数百人の会衆に向って暴言と誹謗を吐き続けたのである。
宗教家の体面を汚し徳を落とし、憐れむべきことであり、悲しむべきことである。」
高崎神社宮司。郷土史研究家。

明治十七年(1884)に建てられた教会の建物は、修繕を繰り返してきたものの、昭和十一年(1936)頃にはまるでお化け屋敷のようであったと小史に書かれています。
そこで、教会堂新築の計画が持ち上がり、昭和十四年(1939)めでたく竣工となりました。


シンフォニーロード建設により、創立の地・宮元町から高崎駅東の東町へ移転したのは昭和六十年(1985)、現在に至ります。


さて、「大手前の広小路」については、次回、10番でお話することと致しましょう。


  


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