明治三十七八年
日露戦役記念園
其外(そのほか)高崎裁判所
学校市役所ある処
日露戦役記念園
其外(そのほか)高崎裁判所
学校市役所ある処
前回9番の歌詞の最後は「大手前の広小路」でした。
「大手前」は高崎城大手門(追手門)前のことで、連雀町との喰い違い木戸内側の広場でした。
明治四十三年(1910)の図では15連隊の「営門」となっていて、その前の道路はまさに「広小路」です。
「営門」前の三角部が「日露戦役記念園」です。
下の写真で玉石垣に囲まれている所がそうです。
記念園の中には戦歿慰霊碑とか戦利品とかがあったんでしょうか。
別角度から撮影されてる写真で見てみましょう。
ちょっと分からないですね。
「日露戦役記念園」が、なぜここに設けられたのか。
「新編高崎市史 通史編4」にそれをうかがわせる記述があります。
「 | 明治三十七年(1904)の「坂東日報」によると、五月二十五、二十六日にかけての、十五連隊緒戦の南山の戦闘で、これを占領した翌日に、市民有志の「高崎源兵隊」の提灯行列が行われている。 さらに高崎市主催の大祝勝会は「旅順陥落の日を待て之を行う筈なり」と付記されている。 |
五月十七日号には「高崎の提灯行列順序」と題する記事がみられ、「高崎市にては、本日一大提灯行列を挙行すべく既にその準備に着手した」と報じた。 | |
旅順陥落を待っての祝賀行進の準備は、市長を委員長に、各町組長を委員として進められた。 | |
各町は先頭に提灯を立て、隊列には女子と十六歳未満のものは除く、などの規則も定められ、十五連隊営門前広場を集合地として、市内を一巡するコースと市内四十八町の行列順序も設定され、旅順陥落、その時を待つばかりとなった。」 |
祝勝会の陰で、十五連隊の将校65人、下士以下1,690人、そして戦病者191人の命が失われました。
「日露戦役記念園」の後ろにあるのが「裁判所」です。
明治四十三年(1910)発行の「高崎案内」には、
「 | 創設當時は高崎商業学校前の空地、即ち陸軍省用地の處にありて高崎區裁判所と稱す。 |
明治十年(1877)十二月今の處(現スズランの所)に新築移轉して熊谷裁判所前橋區裁判所高崎支部と稱す。 二十三年(1890)十一月前橋地方裁判所高崎支部を設置せらる。(略) |
|
現廳舎は明治三十年(1897)中、東京下谷區二長町區裁判所を移轉建造する者也。」 |
しかしこの庁舎は大正四年(1915)失火により全焼し、翌年再築されています。
ところがこの庁舎も昭和二十年(1945)八月十四日の空襲によってまたもや焼失し、戦後再建されます。
私の記憶に残っているのは、その建物でしょう。
ついぞ門の中へ入ることはありませんでしたが、威厳を感じさせる門構えと木造の建物でした。
その「裁判所」も、昭和三十九年(1964)高松町の現在地に移転し、跡地は昭和四十三年(1968)「スズラン百貨店」になりました。
その「スズラン百貨店」も、令和六年(2024)にはリニューアルされるそうですね。
最後の歌詞、「学校市役所ある処」の「学校」と「市役所」はここにありました。
詳しくは、過去記事をご覧ください。
◇史跡看板散歩-14 高崎小学校跡(その1)
◇高崎町役場と町奉行所
あぁ、明治もだけど、昭和も遠くなったなぁ・・・。