2022年11月26日

高崎唱歌散歩-16番 ♪堰代町に蟹下苑・・・

堰代町に蟹下苑(かにしたえん)
これも市中の一名所
更に田圃を打過ぎて
電燈会社に牧牛場

「堰代町」(せきしろちょう)は明治六年(1873)に成立した町で(四年あるいは七年とする説も)、江戸時代には用水を管理する「堰方役人」と、城郭及び周辺の守備を任された「城代組」の屋敷があったので、堰方の「堰」と城代の「代」をとって町名にしました。



「蟹下苑」というのは、貴族院議員・桜井伊兵衛の別荘でした。

過去記事「蟹下苑」にも書いているのですが、私の通学路沿いにありました。
朝、家を出ると高崎神社境内の貸本屋さんに寄り、本殿の横を通って行きます。

境内裏の細い路地を抜けて、

右に曲がると細くて急な坂道の上に出ます。

左側の塀の中が「蟹下苑」で、私が子どもの頃はネットフェンスだったので、中の草叢たる状態を目にすることができました。

今は坂を下りると中央小学校ですが、高崎唱歌の頃はまだ田圃で、その先に電燈会社「高崎水力電気会社」があった訳です。


そして、その隣にあったのが「栗本牧場」です。


明治十三年(1880)旧武州忍藩藩士・栗本秀雄の創立だそうですが、明治三十年(1897)の「高崎繁盛記」では、「牛乳搾取所 牧牛社 栗本信作」と表記されています。


いつから「栗本牧場」という名前になったのか分かりませんが、明治四十三年(1910)の「高崎商工案内」ではその名前で広告が出されています。


昭和二十五年(1950)に牧場はやめて乳製品の生産工場「上毛食品工業」となり、販売は「栗本牛乳」として行うようになります。

昭和三十四、五年(1959、60)の中央小学校の写真です。
下の方に写っているのが、「上毛食品工業」「栗本牛乳」です。

昭和六十二年(1987)には矢島町に新工場を建てて移転しています。

一方、「高崎水力電気」は大正十年(1921)に「東京電燈」に合併され、その跡地を含む田地に宮元町から「中央尋常高等小学校」が移って来たのは大正十二年(1923)です。

現在の中央小学校東門のイチョウがある辺りが「高崎水力電気会社」、手前のマンションの所が「栗本牛乳」でした。

中央小学校も変わりました。

平成十九年(2007)に新築された校舎はずいぶん小さくて、その分、校庭がずいぶん広くなったように感じます。

児童数が少なくなったんでしょうね。
私が入学した時なんぞは1クラス50人、それが7クラスもあったんですから。

貧しい家が多かったのに、何でこんなに子どもがいたのかなぁ。

いまの少子化対策、何かが違ってんじゃないかい?


  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
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2022年11月19日

高崎唱歌散歩-15番 ♪門徒宗なる覚法寺・・・

門徒宗なる覚法寺
寺門の前を過ぎ行けば
境内広き祠あり
熊野の神社鎮座せり

「覚法寺」の宗派を、高崎唱歌では「門徒宗」と言っていますが、高崎寿奈子では「浄土真宗」、高崎志では「一向宗」となっていて、まちまちです。
現在は「浄土真宗」で落ち着いていますが、これは開祖以来の歴史的宗名論争が戦後まで続いたことによるもののようです。
詳しく知りたい方は、こちらをご参照ください。

現在の山門と本堂は西の堰代町側を向いていますが、その時代時代であちこち向きを変えていたようです。


「高崎志」にはこう書いてあります。
北向、近頃迄門及諸堂皆南向ナリシヲ、安永三年甲午二月類焼ノ後、アラタメテ北向トス
本堂 東向、八間ニ九間、瓦葺、本尊阿弥陀ノ木像ヲ安ズ。

明治三十年(1897)頃の絵図では「高崎志」の記述通り、門は北向き、本堂は東向きです。


実は私、堰代町に住んでいたことがありまして、東向きの家でした。
その我が家から道越しに撮った「覚法寺」は、たしかに本堂の背中が見えてます。

門と本堂が現在の西向きになったのは、堰代町側の道路が拡幅された昭和五十四年(1979)のことです。

道路拡幅前の、「覚法寺」北西角から見た堰代町側の通りです。


それが今ではこんなですから。

なんとまぁ、様変わりしたもんです。

嘉多町側にあった「寺門の前を過ぎ行けば」、突き当りが、「熊野神社」です。


「熊野神社」の由緒と沿革を、「新編高崎市史 資料編14」から引用します。
和田義国の子、小太郎正信は、寛元年中(1243~47)に赤坂明神の社地榎森(烏川の左岸、現在の和田橋附近)に二ノ宮・熊野・御霊の三社を勧請した。
その後慶長三年(1598)井伊直政が高崎築城と町割りの際に熊野社(熊野大権現)を榎森から赤坂の諏訪神社の社地(今の高崎神社の地)に移し、高崎の総鎮守とした。
以後歴代高崎藩主が崇敬した二ノ宮社は城内に残し井伊氏の鎮護神とし、御霊(五霊)社は貝沢の地に移して祀っている。
熊野神社は明治三年(1870)に社格制度により村社となり、さらに同十八年(1885)三月に郷社となった。
明治四十年(1907)八月二十四日、当時の市域最大の合併が行われた。
即ち境内末社十二社、および市内十四町にあった二十八社を合併し、同時に郷社高崎神社と改称した。
その後同年九月十七日には宮元町頼政神社境内の神明宮、同九月二十七日には弓町の稲荷神社、さらに同四十三年(1910)五月九日、下並榎村(並榎町)字幅の神明宮と境内末社四社を合併、同年十月二十日には北通町稲荷神社を相次いで合併、合計市内十七町鎮座の三十六社を合併して、文字通り高崎の代表的な総鎮守となった。
大正十四年(1925)三月三十一日、市域で唯一、県下では玉村八幡宮と共に十番目の県社に昇格した。(略)
昭和四年、美保神社の分霊を祀り、大国神社と合わせゑびす講を始めた。」

ということで、今では誰もが知る「県社 高崎神社」です。


私が小学校へ入学する頃の「高崎神社」は、こんな感じでした。

入学衣装はすべて「寅さん」が揃えてくれました。
  ◇あの頃みんな(?)貧乏だった
この頃の貧乏話なら腐るほどあります。
  ◇人情ラーメン物語

閑話休題。
昭和四十五年(1970)には結婚式場「新生会館」(現ホワイトイン高崎)がオープンし、昭和五十六年(1981)には現在の新しい社殿が完成しました。
境内も私が子どもの頃とは随分と様変わりしました。
この辺には、本多さんという駄菓子屋さんがありました。

貸本もやってて、私は常連客でした。
小学校へ行く時に前の日に借りた漫画本を返し、学校が終わるとまた本多さんに寄って、漫画本を借りてから家に帰るという毎日でした。
一冊借りるのに三冊はただで立ち読みするような子どもだったので、本多さんとすれば嫌な客だったにちがいありません。

「高崎ライオンズクラブ」の事務所になっているこの建物の所には、土俵があって、夏祭りかなんかの時は、素人相撲大会をやってましたね。

旅回りの見世物とか、お化け屋敷とかが小屋掛けしてたのもこの辺でした。
今は石段の上に移された手水舎も、ここにありました。


駐車場になっている所には、神楽殿というか舞台というかがありました。

縁日には、旅回り一座が芝居や奇術、アクロバットに歌謡ショーで楽しませてくれました。
市民参加の、のど自慢大会なんてのもありましたね。
みんなが一番興奮するのが「福投げ」で、舞台の上から投げられるお菓子とか、商品が当たる福くじを夢中になって奪い合ったもんです。

県社への「昇格記念之碑」も、ずいぶん台石が低くなっちゃいました。

因みに、ふくれっ面で写ってるのは中学一年生の私です。
初めてかけた眼鏡で物はよく見えるようになりましたが、世間のことはまるで見えてない生意気盛りです。

「ホワイトイン高崎」は二年後をめどに建て直しが計画されており、敷地の一部も売却されるそうです。


バス停の前辺りが、我が家だったんですよね。
狭いながらも、楽しい我が家でした。



  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
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2022年11月12日

この木なんの木 おんなじ木?

市役所附近のイチョウ並木。


市役所からずっと離れた郊外団地のイチョウ並木。

同じ木とは思えない。

高崎市議会での質疑応答。

へ~、お金の問題なのかぁ。

魂の問題だと思うけどなぁ・・・。

それにしても、木で鼻をくくるような答弁。


  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
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2022年11月05日

高崎唱歌散歩-14番 ♪左に折れて嘉多町を・・・

左に折れて嘉多町を
尚も進めば柳川町
戸毎にかがやく軒提燈
往来の人も織る如し

新紺屋町を左に折れると「嘉多町」です。

看板は「ゑびす通り」となっています。
この通りの突き当りにある「高崎神社」に、「ゑびす様」を祀る「美保大國神社」があって、かつては11月20日の「ゑびす講」にはこの道端に多くの露天商が並び、沢山の参詣者が行き来した通りです。

「嘉多町」「片町」で、江戸時代には通りの北側だけに藩の組屋敷があったそうです。
武士以外の人びとが住めるようになったのは明和八年(1771)からです。(田島桂男氏著「高崎の地名」)


尚も進んだ嘉多町交差点から南の通りは、「柳川町」の本通りである「柳通り」です。

左角の車が止まっている所にはむかし交番がありました。
明治四十三年(1910)の「群馬県営業便覧」を見ると、当時は右角にあったんですね。

お堀端の方から来ると、「柳通り」はここで突き当りになってました。
本町まで抜けたのは、大正の初め頃だったようです。
その突き当たった所に「薬種商 石川實之助」って書いてあって、その右隣に「小間物商 志倉商店」というのがありますが、ここが俳人・志倉西馬の養家です。

その相向いが、すき焼きで有名だった牛肉店「信田」(のぶた)です。
歴史のある店でしたが、4年前に建物も解体されて現在は駐車場になってしまいました。



駐車場になったおかげで、明治期創業の老舗小料理店「前田屋」がゑびす通りから見えるようになりました。



夜はこんな感じ。


明治四十三年(1910)発行の「高崎案内」に、「前田屋」の紹介が載っています。
嘉多町通りに在り、屈指の鰻屋なり。
華客(とくい)も澤山ありて信用厚き老舗なりしも、近頃は少し客足の減ぜしやとの評判あれども、なかなかの繁昌なり。」

「柳川町」はけっこう広い町です。
「柳通り」から東側一帯がいわゆる花街、飲み屋街です。


昭和二年(1927)発行の「高崎市史 上巻」に、「柳川町」の沿革が載っています。
明治初年迄ハ、今ノ本通リ(柳通り)以東ハ卑濕(ひしつ:土地が低くてじめじめしている)ノ地ニシテ、蘆葦(ろい:アシ・ヨシ)雑草叢生シ、加之(しかのみならず)溜潦(りゅうろう:水たまり)所々ニ点在シ、道路ノ如キ固(もと)ヨリナク、實ニ白晝(白昼)狐狸躍ルノ寂寞(せきばく:ひっそりとして寂しい)地ナリ、元城ノ防禦地帯タルガ爲ナリ、之レヲ北郭ト偁セリ、
明治六年三月四日、是レニ柳川町ト命名シタリ、
而シテ彼ノ坎地(かんち:低い土地)ハ、明治五年六月、田中祭八ナルモノ、家作ノ許可ヲ得タリ、今ノ電氣館以北五百七十五坪ナリ、爾来次第ニ人家ノ建築アリ、以テ現時ノ如ク、料理店絃妓(げんぎ:芸者)ノ住ム所トナリ、通路狭隘、人家櫛比シ、日夜嬌音絃聲斷ヘズ、粉黛(ふんたい:化粧)ノ嬌姿ト、遊冶(ゆうや:遊びふける)ノ粹客ト、往來頻繁、昔日ノ狐狸去ッテ跡ナク、眞ニ隔世ノ感アリ。」
白昼、キツネやタヌキが出るような草ぼうぼうの湿地帯を、明治五年(1872)田中祭八という人物が家を建てる土地として認可を得たのが、花街、飲み屋街「柳川町」の始まりだったんですね。

その土地は、もと高崎藩の「馬場」だったところだそうです。(更正高崎旧事記)


現在も、その形がほぼそのまま残っています。

「馬場」「バー場」になったという訳で・・・。

また「柳川町」と言えば「芸者さん」です。
大正二年(1913)発行の栗田暁湖著「前橋と高崎」の中に、「高崎花柳界の沿革と変遷」という項があります。
高崎に初めて藝妓の出來たのは、實に此明治の二年高崎市に常設芝居が許可された時が初めで、二名の芸者が東京から輸入されたのに初まって居る。
四十五年を經過した今日では三業、共同の兩見番(けんばん)に五十六名の藝妓と、十名の半玉とがあって、二百に近い白首(しらくび:酌婦)と共に花の高崎を彩り、紅灯緑酒の巷に三絃(しゃみ)の音〆(ねじめ)を緩めて、意氣地も張りも其方除け(そっちのけ)の極めて當世式に御繁昌をして御座る。」

「三業見番」というのは、料理屋・芸者屋・待合の三業者が集まってつくる組合事務所のことで、私が子どもの頃にまだありました。憶えてますここ。


(「高崎のサービス業と花街史」昭和42年根岸省三氏編)

大人は、(芸者)置き屋」って言ってましたね。
前を通ると、いつも三味線の音が聞こえて、門の前に「輪タク」が止まっていました。

「戸毎にかがやく軒提燈 往来の人も織る如し」も、今は昔の物語。
柳川町がまだ元気だった頃の地図があります。


懐かしく思う方も多いことでしょう。
じっくり味わってくださいな。


  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
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