2022年09月27日

隠居の控帳 儀?偽?疑?

内閣は
 苦し紛れの 国葬「儀」
  賢い民は 国葬「偽」か「疑」?





  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
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2022年09月24日

高崎唱歌散歩-9番 ♪公園出でて宮元町・・・

公園出でて宮元町
堀べに沿ふて右左
池水澄みて魚躍る
大手前の広小路

「高崎公園」からお堀に沿って南北に長いのが、「宮元町」です。

明治四年(1871)にできた町で、(頼政神社)のにあるということです。

それまでは「奉行所」やその役宅、領内の米の作柄や年貢をみたてる米見役人が住む「米見町」(こめみちょう)、代官の役宅がある「代官町」という、いわば行政街でした。
明治維新で、南の「代官町」は江戸から引き揚げてきた藩士を住まわせる「南郭」になりました。


堀の土塁を切り通して付けた、公園から高崎市役所前を通ってシンフォニーロードへ抜ける道です。

私が小学生の頃は、たしか土塁はまだつながってたように思います。
土塁の上に胡桃の木が何本かあって、落ちた実を拾いに土塁の上に登ったりしてました。

昭和三十六年(1961)の住宅案内図ではもう道が抜けていますので、土塁が切られたのは私が中学生の頃らしいです。


そうそう、私、5歳くらいの時、宮元町に住んでたことがあるんです。
上の住宅案内図でが付いてる辺りです。
写真右側の青い看板が建ってる辺りだと思うんですけど、当時は行き止まりの狭い路地でした。


中島さんというお宅に間借りしてたんです。
写真はたぶん、そこのお庭で撮ったものだと思います。
庭にニワトリがいましてね。
生みたての卵って温かいんだって初めて知りました。

初めてと言えば、手押しポンプの井戸も初めてでした。
5歳の私が顔を洗うのは至難の業でして、水を出して手にすくおうとすると止まっちゃうんですから。何回やっても。
まるでチャップリンの無声映画か、ドリフのコントです。

中島のおじさんには、とても良くしてもらいました。
おじさんは、前橋の「片原饅頭」に勤めてて、時々「片原饅頭」(余りものだったのかな?)を持ってきてくれました。
もう冷えて硬くなってましたが、焼いて食べるとすごく美味しかったです。
また、私が文字を読めることを知って、「こども新聞」も取ってくれました。

一年くらいの間借り生活でしたが、我が家の暮らしは困窮してました。
その頃の母との思い出を綴った過去記事がありますけどね。

あぁ、すっかり感傷に浸ってしまいました。

切り通しの先に「税務署」とその職員の社宅がありました。
現在の市役所前広場の所ですね。


15連隊時代は、「将校集会所」「偕行社(かいこうしゃ)が置かれていました。

「偕行社」 旧陸軍将校の親睦を目的とする団体で、後に共済組合的存在として軍服など軍装品の販売も行っていた。

その前は、高崎藩主・大河内家の別邸があったそうです。

右下におしゃれな石灯籠が立っていますが、これの一部が市役所前広場に残っています。

木も、大河内家別邸時代のものが何本も残ってるそうです。
それぞれに、説明看板があるといいですね。

さて、だいぶ長くなりましたので、続きは次回ということに。


  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
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2022年09月17日

高崎唱歌散歩-7、8番 ♪更に踵(きびす)を廻らして・・・

更に踵(きびす)を廻らして
畦道(あぜし)東に辿り行き
頼政神社伏しをがみ
遊ぶは高崎公園地

「観音山」から踵を廻らして東に辿る畦道は、今の「観音道路」ではなく旧道です。
旧道については、過去記事をご覧ください。

「聖石橋」まで来ると、向こう岸左手に「頼政神社」の森が見えます。


その「頼政神社」を伏し拝んで、「高崎公園」に入ります。

松柏芝生に生ひ茂り
夏はすずみに冬は雪
いとどさやけき碓氷川
河鹿ほたるの名所なり

「高崎公園」の成り立ちは、昭和二年(1927)発行の「高崎市史 下巻」にこう書いてあります。
抑々(そもそも)當公園設置ノ起原ハ、明治九年附近ノ有志者相議シ、大染寺ノ廃墟及ビ其庭園ヲ利用シ、多少ノ花卉(かき)ヲ寄附シ設置セルモ千餘坪ノミ、」
廃寺になった「大染寺」の跡地を付近の有志が整備したものだという訳です。
「大染寺」については、過去記事をご覧ください。

公園の烏川側に、「大染寺」ゆかりの「高崎八景」という石板が設置されています。


昭和四十三年(1968)発行「高崎市史 第三巻」掲載の「高崎寿奈子」(たかさきすなご)(宝暦五年(1755)西田美英著)に、こう記載されています。
享保(1716~1735)の始めの頃、城中風雅の士、此山より見る所の八景詩歌発句を集め、一軸となして大染寺に納む。
所謂八景は
 烏川渡舟 浅間暮雪 清水晩鐘 半田夕照
 石原晴嵐 佐野落雁 古塁夜雨 少林秋月
是なり。」
「此(この)山」というのは、「頼政神社」の社殿が建つ古墳のことらしいです。
残念ながら、この八景を描いた画幅は行方知れずになっているそうです。

ただ、この「高崎八景」、天保十年(1839)につくられた別バージョンがあるんですね。
「群馬風土記 通巻26号」に、俳山亭主人氏寄稿の「上毛老談紀」という一文があり、そこに氏が所蔵する「高崎八景」の画幅が掲載されていました。

それぞれの画題は享保版と微妙に異なっています。
なお、天保版の「鷹城」とは「高崎城」のことだそうです。

さて公園の話に戻しますが、明治九年に整備はしたものの、公園としてはちょっと見劣りするものだったようです。
再び「高崎市史 下巻」
園ノ側ニ監獄アルノミナラズ、徒ラニ(いたずらに:無駄に)児童ノ遊戯場タルニ止マレリ、」


そこで、園地の改修を試みるのですが、
明治十九年改修ヲ加ヘシモ見ルニ足ラズ、加之(これに加え)陸軍作業場ヲ旁ニ置カレ、其南部ハ所謂(いわゆる)南郭(みなみくるわ)ノ人家アリ」
という具合です。


しかし、明治三十三年(1900)にわかに公園の整備が加速します。
明治三十三年市制施行ニ至リ始メテ市會ノ議ニ上リ、爾来次第に擴張ヲ策シ、三十九年二月監獄署ノ移轉ヲ始メトシ、陸軍作業所ヲ乘附ノ地ト交換シ、人家ヲ移轉セシメ、小澤奎次郎ニ設計ヲ囑シ着々工事ヲ起セリ」
これでだいぶ公園らしくはなって来たようです。


「高崎唱歌」に詠われたのはこの頃のことなんでしょうが、その後、あることがきっかけで公園の整備はさらに進みます。
時恰(ときあたか)モ明治四十三年、一府十四縣、聯合品評會ヲ本縣ニ開カレ本市ニ教育部ヲ置カルゝニ際シ、急速ニ工事ノ進行ヲ見、加フルニ本市多年ノ計畫タル水道工事モ完成シ、剰水ヲ以テ池中一大噴水ヲ設ク、
池畔ニ樹竹花卉ヲ点綴(てんてい:散らばせ)シ、怪石奇岩ヲ配シ天然ノ美ト、人工ノ妙ト、相俟ツ(あいまつ:互いに作用しあって)ヲ始メテ本市ノ公園トシテ耻(はじ)ザルニ至レリ」

ということで、ようやく高崎市として恥ずかしくない公園となった訳です。

でも、まだ木々が幼くてちょっと寂しい感じ。
噴水も、まだ鶴の像がありません。

鶴の像については、「新編高崎市史 通史編4」にこんな記述があります。
大正八年(1919)六月、上野動物園から寄贈された丹頂鶴の一番(ひとつがい)を、市は高崎公園で飼養することにした。
また、泉水を設け、中に岩山を築いた鶴の像は、井上保三郎の寄附によるものであった。」
鶴の像が寄附されたのは昭和三年(1928)、昭和天皇の即位奉祝を記念してのことだそうです。

今は木々も大きくなりました。


「高崎市史 下巻」には、こんな記述もあります。
池水ノ流末ヲ暗渠ニ導キ、崖上ヨリ崖下ニ飛瀑トナリ潨然(そうぜん:音を立てて)之ニ懸ル、又池中ニ入リ其流末淙々(そうそう:淀みなく)烏川ニ入ル」
池の水は滝になって崖下に落ちて下の池に入り、そこから烏川に流れ込んでいたというのです。

大正三年(1914)の地図には、その二つの池が描かれています。


滝は二段になっていて、「雌雄の滝」という名が付けられていました。


崖下の公園は「下公園」と呼ばれていました。


戦後「下公園」は国道で削られ、「雌雄の滝」「比翼連理の滝」となりました。

もう少し流量を増やしたいですね。

さて、公園にて少し遊び過ぎました。
今回は、この辺で。



  


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2022年09月10日

高崎唱歌散歩-6番 ♪茲に暫く憩ひつつ・・・

茲(ここ)に暫く憩ひつつ
今来し方を見渡せば
数万(すまん)のいらか立ちならび
景色ぞいとど優りける

「茲(ここ)」というのは「観音山」でしょう。
山上、あるいは石段の楼門上から高崎市街を遠望してるんだと思います。

山上からの景色は、清水寺の売りでした。
明治四十二年(1909)発行の「上毛遊覧」という本に広告が載っています。


遡って明治二十五年(1892)には、その景色が脚気療養に良いということで、こんな広告まで出しています。


下の写真は、聖石橋からの観音道路が開通しているので、昭和七年(1932)以降のものだと思うのですが、まだまだ片岡は田畑が広がり、遠く高崎を望めばまさに「数万のいらか立ちならび」という景色です。


聖石橋が真正面に見えますので、おそらく清水寺の楼門から撮影されたものでしょう。

今は楼門最上階へは上ってくれるなと、階段にビニールテープが張られています。

ま、上ったとしても木々が大きくなってしまっていて、下界を望むことはまったく出来ないのですが。


現在の市街遠望スポットといえば、山頂駐車場でしょう。


今や片岡地区まで家々がびっしり立ち並び、「数万のいらか」「数十万のいらか」となっています。


  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
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2022年09月03日

高崎唱歌散歩-5番 ♪春は藤波秋は月・・・

春は藤波秋は月
眺めもさえて烏川
橋を渡りて観音山
四時の散策此の処

「春は藤波」は、馬場若水の「藤花園」のことでしょう。
そこから烏川の眺めを愛でながら、橋を渡って「観音山」へという訳です。
「橋」はもちろん「聖石橋」

大正時代の写真だそうです。

まだ木橋ですね。
「聖石橋」の変遷については、過去記事でご覧ください。

木橋の維持管理はたしかに大変だったようで、明治四十五年(1912)にも架け替えが行われています。


昭和六年(1931)にコンクリート橋に架け替えられるのですが、コンクリート橋と木橋の二つの「聖石橋」が並んで写ってる珍しい写真があります。

風情という点では、木橋の方がいいなぁ。

その後、昭和二十六年(1951)には烏川河畔に国道10号線(現18号線)が開通し、昭和四十三年(1968)と四十五年(1970)に橋の左右に歩道が設けられ、平成十九年(2007)に全面拡幅されて今の姿になりました。


そして「観音山」ですが、「高崎唱歌」の頃にはまだ「白衣大観音」はありません。
「白衣大観音」が建立されるのは昭和十一年(1936)、そのずっとずっと前から「観音山」だったのです。

「清水寺」の本堂は山の麓にあり、本尊の千手観音を祀る「観音堂」が山上にあったので、人々はその山を「観音山」と呼んだのです。

因みに「高崎唱歌」の当時、「観音山」髙崎市ではなく隣の片岡村でした。


でも、高崎市民には「四時の散策此の処」だったんでしょうね。
そうそう、「四時」は時刻ではなく「四季」のことです。
今も昔も、四季折々楽しめる高崎市民憩いの山です。
もっともっと活かしていきたいものです。


  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
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