2022年10月01日

高崎唱歌散歩-9番の続き ♪池水澄みて魚躍る・・・

公園出でて宮元町
堀べに沿ふて右左
池水澄みて魚躍る
大手前の広小路

「池水澄みて魚躍る」ってのがよく分からないんですよね。
大手前に池があったという話は聞かないし、「お堀」の水が澄んでたという記憶もないんですけど、「高崎唱歌」がつくられた頃は澄んでたんでしょうか。
フナとかクチボソはいましたね。ザリガニもいてよく釣って遊んでました。

今は切り通しの所のお堀を覗くと、エサをもらえるとでも思うのか、沢山の鯉が集まってきます。


税務署と労基局の間を抜けた所は、高崎城の「巽(辰巳)門」で、15連隊時代も営門として使われていました。


シンフォニーロード開通によって、今は跡形もありません。


でも橋の名前に、「辰巳」の名称が残っています。


「高崎唱歌」の頃、ここには学校がありました。

明治三十年(1897)の地図では「発育学校」、大正五年(1916)の地図では「国振学校 深井幼稚園」となっています。

「発育学校」とは聞き慣れない名前ですが、福沢諭吉「文明教育論」の中にこんな一節があります。
学校は人に物を教ふる所にあらず、唯其天資の発達を妨げずして能くこれを発育する為の具なり。
教育の文字甚だ穏当ならず、宜しく之を発育と称すべきなり。
斯の如く学校の本旨は所謂教育にあらずして、能力の発育にありとのことを以て之が標準となし、顧て世間に行はるる教育の有様を察するときは、能く此標準に適して教育の違はざるもの幾何あるや。
我輩の所見にては我国教育の仕組は全く此旨に違へりと言はざるを得ず。」
「教育」でなく「発育」であるべきだというのですね。

この言に賛同したのでしょうか、高崎の教育者・深井仁子が明治十五年(1882)に設立したのが、私立の「発育学校」でした。
貧しい家庭の子どもを受け入れたので「貧乏学校」とも呼んだようです。
「高崎の散歩道 第十二集下」に、こんな記述があります。
明治の小学校ができた頃、誰もがよろこんで通学したのではなかった。
親の中には働手がなくなるとして反対する者もいた。小学校へゆけることは贅沢な家庭と考えられてもいた。
この深井学校は、小学校へあまりゆかない子弟を中心の学校であった。
家塾のような学校で、障子には、生徒が何度も練習した習字の半紙がはってあったという。
真っ黒の障子である。
深井先生も決して楽な生活ではなかったようだ。」

「発育学校」は、明治三十五年(1902)「国振(くにふり)学校」と改称します。
発育(教育)が国を振興させるという考えなのでしょう。
さらに明治四十年(1907)には学校の一階部分を使って「深井幼稚園」をも開園します。

深井仁子は大正七年(1918)に他界し養女のダイが後を継ぎますが、そのダイも大正九年(1920)に他界し、学校と幼稚園は廃滅してしまいます。
現在、観音山清水寺の石段に深井仁子の顕彰碑が建っています。過去記事をご覧ください。

その学校の相向いに「教会堂」「高崎教会」というのがあります。


ここは、明治十七年(1884)「西群馬教会」として設立され、明治二十五年(1892)頃「高崎教会」と呼ぶようになりました。


設立当初、信者数は増加していきますが、明治二十五年(1892)頃から急激にその数が減少します。


その理由が「新編高崎市史 通史編4」に書かれています。
このころ教会にとって大変な時期であった。
神道・仏教勢力によるキリスト教演説会や教会での信徒集会・礼拝への嫌がらせや妨害が相次ぎ、特に高山照光なる人物とその一味によって続けられてきた高崎教会への妨害は、ついに二十一年四月一日の夜の集会で、高山一味と扇動された一部聴衆による、会堂内の器物損壊事件に発展した。
高山は警察によって逮捕されたが、教会員や家族に大きな不安を与えた。
高山の背後関係ははっきりしないが、高山は「耶蘇退治神道大幻灯会」などを開催しているので、「大物」神官の関与も否定できない。」

市史では「大物神官」としか書かれていませんが、「高崎教会百年小史」でははっきり氏名が書かれています。
高山照光は高井東一等と共謀して、耶蘇教退治神道大幻燈会という会を二箇所の寺院で開き、我等の名を指し、図を示して、数百人の会衆に向って暴言と誹謗を吐き続けたのである。
宗教家の体面を汚し徳を落とし、憐れむべきことであり、悲しむべきことである。」
高崎神社宮司。郷土史研究家。

明治十七年(1884)に建てられた教会の建物は、修繕を繰り返してきたものの、昭和十一年(1936)頃にはまるでお化け屋敷のようであったと小史に書かれています。
そこで、教会堂新築の計画が持ち上がり、昭和十四年(1939)めでたく竣工となりました。


シンフォニーロード建設により、創立の地・宮元町から高崎駅東の東町へ移転したのは昭和六十年(1985)、現在に至ります。


さて、「大手前の広小路」については、次回、10番でお話することと致しましょう。


  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
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