2010年03月12日

三国街道 帰り道(11)

三国街道 帰り道(11)「堤下公園」山村暮鳥詩碑から坂を登ると、「胸形(むなかた)神社」があります。

「胸形」という文字に、つい、あらぬことを想像してしまうのですが、またまた当て字のようでして、胸の形とは関係ありません。

伝説によると、この神社の創立は景行天皇五十五年(125)だそうですから、1800年以上も前ということになります。

どうもこの辺りには、景行天皇の名前がちらほら登場します。
「旧三国街道 さ迷い道中記(11)」では、「足門」という地名の由来がやはり景行天皇にあるとされていました。

因みに、現在の「胸形神社」の社殿は、宝暦二年(1752)に再建されたものだそうです。
それにしても260年前なのですから、大したものです。

で、「胸形」ですが、これは「宗像(むなかた)」なのだそうです。
遠く九州にある本家本元の「宗像大社」は、航海安全の守護神です。
海の無い群馬に、なぜその神様が祀られているのか、不思議な話です。

そもそも「胸形神社」は、明治初年まで「八幡神社」と呼ばれていました。
三国街道 帰り道(11)
お馴染になった堤ヶ岡村の小字名の図を見ると、「胸形神社」のあるところは確かに「南八幡街道」となっています。

「八幡神社」「胸形神社」と改称されたのは、明治七年(1874)です。
当時、「八幡神社」の祠掌をしていた深井清雄氏が改称を申請したのですが、その願状にはこのように書かれています。
  「当社ハ中古以来八幡神社ト相称シ候得共
   其ノ根元ヲ尋ヌルニ本社ハ筑前国宗像郡神社也」


「昔から八幡神社と言ってるけど、その根元は九州福岡宗像神社なんだよ。」という訳です。

また、その根拠について綿々とつづっています。
  「当国神明帳ニモ群馬西群之内ニ従四位胸形明神アリ、
  則チ棟高村ノ鎮座八幡神社也、
  祭神ハ右ニ言宗像三坐ニテ、(略)三社現然有之候処、
  罹治承四年之災不残焼失」


「上野国神明帳にもこの辺に胸形明神があったと書いてあるし、祭神は宗像三女神で、ちゃんと三つの社もあったんだけど、治承四年(1180)の災難※1でみんな焼けちゃったんだよねー。」と言っています。
※1治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん):源頼朝の挙兵から、平氏一門が壇ノ浦で滅亡するまでの内乱。
「胸形明神」は、平家方に属した足利太郎俊綱によって焼かれたと伝えられる。
さらに、
  「当今社東ニ名所三社免ト相唱ヘ
   棟高菅谷引間三ヶ村一円ニテ現存候上ハ
   宗像三社跡の一古微ト奉存候」

「この神社の東に三社免という地域があるのは、昔、宗像三社があったという証拠だと思う。」と言うんですね。
確かに、小字の図を見ると、右上に「西三社免」と書かれた所があります。
全国にある「免」という字のつく地は、年貢を免除されていた所で、寺や神社の近くが多いようです。
年貢を納める分を、寺社に寄進しなさいということなのでしょう。

根拠の説明はまだ続きます。
  「且亦近傍土俗ノ遺説ニモ棟高ハ元宗像ナリシヲ
   後世ノ人誤テ棟高ト書或ハ唱エ候と古老ノ申伝ヘモ有
   之カタタカハ通音ナリ」


「ここの地名にしても元は「宗像」なのに、後世の人が間違って「棟高」にしちゃったんですよ、だってほら、「カタ」「タカ」って音が似てるでしょ。」と必死の説得です。
その熱意が通じたのでしょう、見事「胸形神社」に改称することができたんですね。

ところで、「海の無い群馬に、何故、航海安全の守護神が?」という疑問ですが。
一説には、上野国からの防人が帰還する時に、筑紫国の人とその守護神を連れて来たのだといいます。
なぜ筑紫の人を連れて来たかというと、上野国分寺の造営に先進地の技術者が必要であったから、という説です。(近藤義雄氏著「上州の神と仏」)

群馬にいる宗方さんや宗形さんも、もしかするとその時のご子孫なのでしょうか。
「胸形神社」は、古代ロマンにつながっていたんですね。

(参考図書:「堤ヶ岡村誌」)


【胸形神社】
三国街道 帰り道(11)





同じカテゴリー(三国街道)の記事画像
番外 高崎の孝女みえ
三国街道 めぐり会い
三国街道史跡めぐり(小鳥・大八木)
号外!「企画展 三国街道と宿場」
三国街道 帰り道(最終回)
三国街道 帰り道(18)
同じカテゴリー(三国街道)の記事
 番外 高崎の孝女みえ (2017-05-24 12:21)
 三国街道 めぐり会い (2010-07-16 06:51)
 三国街道史跡めぐり(小鳥・大八木) (2010-06-14 10:47)
 号外!「企画展 三国街道と宿場」 (2010-06-06 06:54)
 三国街道 帰り道(最終回) (2010-04-09 07:38)
 三国街道 帰り道(18) (2010-04-07 07:34)

Posted by 迷道院高崎 at 07:43
Comments(8)三国街道
この記事へのトラックバック



いつもRSSして閲覧している隠居の思ひつ記−三国街道 帰り道(11)の記事をきっかけにしてうろうろ周辺を歩く。

庚申塚に腹巻したお...
高崎 棟高あたりで 庚申のお猿さん。【お散歩趣味 】at2010年03月13日 22:33
この記事へのコメント
「胸形」という名称は当て字のようですが、身近でも気が付いたことが・・・

安中は奈良・平安時代あたりでは野後(のじり)とよばれていましたが、
今でも上野尻(かみのじり)・下野尻の地名が残っています。
読みが同じでも文字が変わって後世に残ることは随分あるのですね。おもしろいです^^。
Posted by 風子  at 2010年03月12日 13:17
「棟高」と「宗像」と関係があっただなんて
驚きです。
私の妻の父は「棟高」の生まれ。
私の母方の従兄弟の娘の連れ合いは九州は
「宗像」の生まれ、二人は近くに住んでいますよ。
「棟高」と「宗像」ぜんぜん関係が無いと思っていましたが、さに非ず。
防人が帰りがけに「宗像」の人を連れてきたとはホントかいな。
従兄弟の娘が「宗像」の九州男児を群馬人にしてしまったのはホントの話。
九州と群馬、遠いけれど古からいろいろな繋がりがあって面白い。
Posted by いちじん  at 2010年03月12日 17:08
ふーむ、迷道院様、棟高が宗像だったとは。さらに国分寺建立の時代に遠く九州の防人と関係があったなんて。ロマンを感じますね。
そう言えば、保渡田の八幡塚や二子山の被葬者も大和政権の関係者とか渡来人だとか色々な説があります。古代の人々はモータリゼーションも何もない時代からわりと行動範囲がグローバルだったんですね。
話はかわりますが先号の「三国街道帰り道」で公園の土管に入ってた迷道院様がお茶目で微笑ましく私、大好きです。\(^0^)/
Posted by 柏木沢の農家おじさん  at 2010年03月12日 18:23
>風子さん

あー、「のじり」ですか。
そうですね。
そう言えば、安中には「野殿」という所もありましたね。

地名を研究している方も少なからずいるようですが、面白くて止められなくなるかも知れませんね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年03月12日 19:51
>いちじんさん

アハハ、歴史は繰り返すと言いますが、そうですか、本当に連れ帰ってきましたかー(^^)

よろしくお伝えください!
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年03月12日 19:56
>柏木沢の農家おじさん様

本当に古代人の活動範囲の広さには、びっくりしますよね。
そもそも人間自身、アフリカで誕生して世界中に広がったというんでしょ?
しかも、海を渡ってというんですから。

土管、ちょっと懐かしんでみました!
ほんとは、ターザンロープもやってみたかったんですけど・・・。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年03月12日 20:03
どもども!です。

この記事に触発されて、棟高あたりを散歩してきました。
いつも通る街道から一本奥に入ると昔からの道が残っていて・・・。
集落の風景、いいですね。
昔からの造りの農家、蔵が続いていたり、畑には梅の木がたくさん植えてあったり・・・。

梅や沈丁花の香りを楽しみながら周辺を逍遥してきました。

   夢寅 拝
Posted by 夢寅  at 2010年03月13日 23:38
>夢寅さん

そうでしたか(^^)

観音寺からあの辺りにかけては、細い道が入り組んでて、昔のまんまという風情ですよね。

幾何学的でない風景が、何とも言えない癒しを与えてくれます。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年03月14日 07:31
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
三国街道 帰り道(11)
    コメント(8)