高崎駅にも近ければ
菓子に煙草に雑貨店
割烹店に旅人宿
軒を並べて栄えゆく
菓子に煙草に雑貨店
割烹店に旅人宿
軒を並べて栄えゆく
これは、31番に続き「新町」(あら町)のことを言ってます。
「群馬県営業便覧」で明治三十七年(1904)の「新町」を見てみましょう。
停車場道から突き当たって北の中山道沿いです。(ちょっと連雀町も含まれてますが)
水色は菓子、緑色は煙草、黄色は雑貨、桃色は割烹・飲食、白色は宿泊業です。
たしかに、それらの店が軒を並べて栄えてたのがよく分かります。
歌詞にないので色は付けてませんが、「石材商 藤澤淸次郎」という店があります。
今も残るあら町の老舗「藤沢石材店」ですね。
突き当りを南へ行く中山道沿いにも、大店こそありませんが、各種の店が軒を並べています。
停車場通りは八島町ですが、左下は「あら町」分です。
実は、迷道院が生まれたのは「天狗湯」の東隣の家でした。
明治三十七年(1904)当時はお菓子屋さんだったんですね。
我が家は、終戦間際の強制疎開で八島町の「専売局」前からここへ移ってきました。
下の写真は、たぶん「信濃屋」旅館の二階から撮影されたと思われる、停車場通りの風景です。
右側に見える高い煙突が「天狗湯」です。
「天狗湯」の歴史は古く、元禄年間(1688~1704)にはあったようです。(高崎の地名)
何歳くらいなのか、家の前で写ってる迷道院です。
バットを持たされているのは、父が町内の野球チームに入っていたかららしいです。
この家には四歳くらいまでしか住んでなかったので、記憶はうっすらとしか残ってません。
十三違いの姉に、間取りを思い出してもらいました。
そう言われれば、何となく憶えているかも。
「天狗湯」との間が路地になっていて、台所からスッポンポンで風呂屋に飛び込んでった記憶があります。
裏は「延養寺」の墓地でした。
塀を乗り越えて墓石によじ上って遊び、お寺の息子に拳骨をもらいましたっけ。
二階に、手回しの蓄音機があったのを憶えてます。
音を聞いた記憶はないので、壊れてたのかも知れません。
日本神話の絵本が沢山ありました。
この頃、もう字が読めたらしいです。
隣が「鳥才」という鶏肉屋で、迷道院と同じくらいの男の子がいました。
写真では、二人とも戦後の浮浪児みたいですが。
二階のトタン屋根を伝ってしじゅう行き来して遊んでました。
名前も忘れてしまいましたが、いま、どうしてるかなぁ。