「春日堰取水場」の完成は明治四十一年(1908)十一月十二日でしたが、そこから「剣崎浄水場」まで水を送る「導水管」の工事に着手したのは、ちょうど一年後の明治四十二年(1909)十一月八日でした。
四十一年九月から着工されていた「剣崎浄水場」の工事との関係だったのでしょう。
現在、「導水管」は国道406号線の道路下に埋設されているそうですが、最初はその南の丘陵部を通っていたようです。
しかし、その具体的な経路はよく分かりません。
「高崎市水道誌」を拾い読みしてみても、
という具合で、何とも漠然としています。
ただ、実は二年前、偶然にも、その「導水管」が埋設されていたという場所を教えて頂いたことがあります。
その方は、「水道みち」と仰ってました。
「水道みち」を地図上で延長していくと、「ベイシア」の南側丘陵部の道につながっていそうです。
行ってみると、ヘアピンカーブの所に、「水道みち」だったらしい痕跡を見つけました。
「水道みち」らしき痕跡は、ヘアピンカーブを横切って、さらに南東方向へ向かっています。
その痕跡をずーっと行くと、「向井住民センター」の脇を通って「郷見神社」のところに出ます。
境内から南東の方向を見ると、遠くに「城山稲荷」が見えます。
「導水管」からの水漏れが原因ではないかとも言われた、土砂崩落災害が発生したところです。
「高崎市水道誌」に「導水管」の写真が掲載されてました。
仕様も書かれています。
「城山稲荷」からも、「水道みち」らしき道が南東へ向かって切れ切れに続いているように見えます。
近くをウロウロしていると、面白いものを見つけました。
切り通しのように見えますが、それにしてはきれいに石が積まれています。
よく見ると、こんな文字が刻まれていました。
これ、もしかすると、「導水管」を架け渡すための橋脚だったんじゃないでしょうか。
さらにウロウロすると、少し離れた所に「第五號」というのもありました。
「第六號」は明治四十二年(1909)、「第五號」は明治四十三年(1910)竣工となっています。
探せば、まだどこかに「第一號」~「第四號」が残っているのかも知れません。
さて、「春日堰取水場」から3,908間(7.1km)、「水道みち」を通って敷設された「導水管」が「剣崎浄水場」に接続され、ついに高崎市内に上水道が供給されたのは明治四十三年(1910)十一月三十日のことでした。
112年後の今も、現役で活躍しています。
信州大学の中本信忠教授は「日本一おいしい水」だと評価しています。
帰りがけに「若田浄水場」内の「水道記念館」へ寄ってみたら、「あれ?」と思うものを見つけました。
やっぱり、あの橋脚らしきものは「導水管」用だったようです。
やれやれ、これで「高崎唱歌」二番を、どうにか終わらせることができました。
ふぅー。
四十一年九月から着工されていた「剣崎浄水場」の工事との関係だったのでしょう。
現在、「導水管」は国道406号線の道路下に埋設されているそうですが、最初はその南の丘陵部を通っていたようです。
しかし、その具体的な経路はよく分かりません。
「高崎市水道誌」を拾い読みしてみても、
・ | 水道線路は前記神山町を基点とし・・・ |
・ | 線路に沿ひたる地名 碓氷郡里見村大字上里見村・中里見村・下里見村、同郡八幡村大字若田村・八幡村・剣崎村・・・ |
・ | 導水管線路は概して丘陵起状する処なるを以て、従て盛土を要する個所多く・・・ |
・ | 此部分の地理は現今(注、大正末年)神山町内県道にして、古老の伝ふる所、往昔烏川の流れし所なりと言ふに・・・ |
ただ、実は二年前、偶然にも、その「導水管」が埋設されていたという場所を教えて頂いたことがあります。
その方は、「水道みち」と仰ってました。
「水道みち」を地図上で延長していくと、「ベイシア」の南側丘陵部の道につながっていそうです。
行ってみると、ヘアピンカーブの所に、「水道みち」だったらしい痕跡を見つけました。
「水道みち」らしき痕跡は、ヘアピンカーブを横切って、さらに南東方向へ向かっています。
その痕跡をずーっと行くと、「向井住民センター」の脇を通って「郷見神社」のところに出ます。
境内から南東の方向を見ると、遠くに「城山稲荷」が見えます。
「導水管」からの水漏れが原因ではないかとも言われた、土砂崩落災害が発生したところです。
「高崎市水道誌」に「導水管」の写真が掲載されてました。
(注:崩落現場のものではありません)
土管だったんですね。仕様も書かれています。
・ | 引用水管は円管口径壱尺二寸(36.4cm)とす |
・ | 管は混凝土管にしてその割合「セメント」一、洗砂三なり |
・ | 混凝土管は上部の土圧に耐ゆるの為、充分之を厚く作り掘鑿せり 地面を搗き固めて之を据付け接合部には麻を詰め込みこれに調合「セメント」一、砂一の「モルタル」を充填し粘土を以て囲繞す |
「城山稲荷」からも、「水道みち」らしき道が南東へ向かって切れ切れに続いているように見えます。
近くをウロウロしていると、面白いものを見つけました。
切り通しのように見えますが、それにしてはきれいに石が積まれています。
よく見ると、こんな文字が刻まれていました。
これ、もしかすると、「導水管」を架け渡すための橋脚だったんじゃないでしょうか。
さらにウロウロすると、少し離れた所に「第五號」というのもありました。
「第六號」は明治四十二年(1909)、「第五號」は明治四十三年(1910)竣工となっています。
探せば、まだどこかに「第一號」~「第四號」が残っているのかも知れません。
さて、「春日堰取水場」から3,908間(7.1km)、「水道みち」を通って敷設された「導水管」が「剣崎浄水場」に接続され、ついに高崎市内に上水道が供給されたのは明治四十三年(1910)十一月三十日のことでした。
112年後の今も、現役で活躍しています。
信州大学の中本信忠教授は「日本一おいしい水」だと評価しています。
帰りがけに「若田浄水場」内の「水道記念館」へ寄ってみたら、「あれ?」と思うものを見つけました。
やっぱり、あの橋脚らしきものは「導水管」用だったようです。
やれやれ、これで「高崎唱歌」二番を、どうにか終わらせることができました。
ふぅー。
【導水管橋脚第六号】
【導水管橋脚第五号】