前回の「電燈・電話」に続き、今回は「水道」の話です。
高崎の飲用水は、長らく「新井堰」の水が利用されてきましたが、幕末から明治にかけて住民の数が急増してくると問題が発生してきます。
「新編高崎市史通史編4」に、こう記されています。
そこで、明治二十一年(1888)「新井堰」に簡易浄水場を設け、高崎中心部の15ヵ町に簡易水道水が供給されるようになります。
浄水場は通称「水こし場」と呼ばれ、「高崎唱歌」22番にも、
その浄水設備の構造が「新編高崎市史資料編9」に載っています。
この簡易水道を保守・管理するために、「水道巡視人」という人が任命され、その心得が定められました。
「巡視人」のいで立ちも定められています。
うーん、イメージが湧くような湧かないような・・・。
こうして運用された「簡易水道」ですが、そこは「簡易」の限界があり、大雨の時には濾過しきれずに、蛇口から小魚などが出てくることもあったようで。 → ◇蛇口から魚?
「高崎市水道誌」にも、このような記述があります。
そこで、新水源を求めて調査が開始されるのですが・・・、
という具合で、なかなか新水源を得ることは出来なかったのです。
明治三十三年(1900)高崎に市制がしかれると、初代市長・矢島八郎は水道敷設を最大かつ喫緊の事業として取り組みます。
話は長くなりますので、続きはまた次回。
高崎の飲用水は、長らく「新井堰」の水が利用されてきましたが、幕末から明治にかけて住民の数が急増してくると問題が発生してきます。
「新編高崎市史通史編4」に、こう記されています。
「 | 江戸時代の貞享四年(1687)の高崎宿の人口は5,734人で、それから169年後の安政三年(1856)は7,784人である。 この間の増加を一年平均で見ると12人となる。 |
明治十一年(1878)の高崎の人口は16,115人であるから、22年前の安政三年と比較してみると、一年平均で379人の増加である。 | |
幕末から明治にかけてのこのような急増は人々の居住環境を変化させた。 | |
それまでの長い間大切にされてきた水路に、下水が流入するようになったのもその一つである。 | |
家庭用の井戸が掘られるようになったが、その井戸でも良質の飲料水を得ることは難しかった。 水を生み出す地層そのものが汚染されてきたのである。 |
|
こうして、人間の生存に欠かせない良い水を求める声が、人々の間に高まっていった。」 |
そこで、明治二十一年(1888)「新井堰」に簡易浄水場を設け、高崎中心部の15ヵ町に簡易水道水が供給されるようになります。
浄水場は通称「水こし場」と呼ばれ、「高崎唱歌」22番にも、
「ここは水道水こし場 住吉町の西の方・・・」
と歌われています。その浄水設備の構造が「新編高崎市史資料編9」に載っています。
「 | 水道口は住吉町地内に、 長さ八尺(2.4m)・幅十二尺(3.6m)・深さ六尺(1.8m)の沈定盤と、 長さ九尺(2.7m)・幅二間(3.6m)・深さ六尺(1.8m)の濾過器と、 長さ十尺(3m)・幅十二尺(3.6m)・深さ三尺(0.9m)の溜井函等を設け、 総て煉化石造とし、内部へハ木製の仕切函を置き、器の底はコンクリートを以て修築し・・・」 |
【戦後発掘された簡易水道浄水場】
この簡易水道を保守・管理するために、「水道巡視人」という人が任命され、その心得が定められました。
第一条 | 水道の全体を監守するため巡視人一名を置く |
第二条 | 巡視人ハ一日二回以上水道の全体を巡視すべし |
第三条 | 巡視人ハ貯水池及供用汲井等に異状または破損あるを認むるときは、其状況を郡役所に報道すべし |
第四条 | 巡視人ハ出張郡吏の指揮に従ひ、貯水池掃除等の事を所理すべし |
「巡視人」のいで立ちも定められています。
第六条 | 巡視人ハ水道巡視の際必ず制規の被服を着用すべし |
第七条 | 巡視人被服ハ紺小倉にして袖先に水字の徽章を附す、帽は独逸形にして正面に水字の徽章を附す |
こうして運用された「簡易水道」ですが、そこは「簡易」の限界があり、大雨の時には濾過しきれずに、蛇口から小魚などが出てくることもあったようで。 → ◇蛇口から魚?
「高崎市水道誌」にも、このような記述があります。
「 | 十五ヵ町の水道は成ったが、降雨あれば水門を締め、また、長野堰その他水路の修繕等による断水がしばしばあり、ときには一ヵ月近く停水のこともあって、完全な水道を求める動きが起きてきた。 また、水道未設置の町内(高崎全戸数の約六割)からも強い要望が出てきた。」 |
そこで、新水源を求めて調査が開始されるのですが・・・、
「 | 明治二十八年頃、群馬郡中川村大字大八木村の猪之川(井野川)べりの湧水を時の助役深井寛八らが実地踏査した。水道の新しい水源を求めての動きである。 水質は飲料水として適切と認定され、噴出量も一見必要量を満たすかに認められたが、永久の水源として、将来の水脈の変化を測定するによしなく、信をおくに足る調査結果が得られないまま、さたやみとなった。 |
同じころ、倉賀野町の長野堰田用水利用は高崎の末流に当たり、旱魃に苦しむことが多かったので同町の富豪松本勘十郎主唱により、吾妻川に取水場を設け、高崎を通過して同町に引く計画が立てられた。 当時、高崎は水道の改善拡張を望んでいたおりであり、ときの県知事中村元雄は高崎に来て、この際、倉賀野の企画に協力し、高崎の飲料水の確保をはかるようにとすすめた。 そこで高崎において同川の水質を調査したところ硫酸過量で飲料水に適しないものと判明。 このようなことから、この計画も中止された。 |
|
また、明治三十年、現在の長野堰支流新井堰の水道取入口に沈澄池・沪過池の新設について調査を大森俊次郎に依頼したが、水頭及び余地なく見込みなき旨の報告があった。 なお、取入口を並榎村に移して沈澄池を設置する案もあったが、田用水組合との交渉困難のため立ち消えになった。」 |
明治三十三年(1900)高崎に市制がしかれると、初代市長・矢島八郎は水道敷設を最大かつ喫緊の事業として取り組みます。
話は長くなりますので、続きはまた次回。