「藤鶴姫の墓」から権田方面へ300mほど行った所に、「神明宮」(しんめいぐう)の鳥居が建っています。
丸い柱の直線・直角的なフォルム、貫(ぬき)が柱を突き抜けず、額束(がくつか)もない簡素な造りが、「神明鳥居」の特徴だそうです。
鳥居を潜った正面に社殿、史跡看板はその手前に建っています。
天照大御神は、教育勅語に「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ・・・」とあるように、天皇の祖先神ということになっていますので、本来、天皇以外は奉幣することのできない神様でした。
中世になって武家が政治を行うようになり、朝廷の力が衰えてくると、天照大御神を祀る伊勢神宮も衰微していきます。
そこで、全国各地に派遣されて伊勢神宮のお札を売ったり、祈祷やお祓いをする「御師」という人たちが活躍します。
これによって庶民のお伊勢参りが盛んになり、全国各地に天照大御神を祀る神社が建立され、皇室だけでなく日本全体の鎮守の神様となっていきました。
慶長年間に創建されたとされる三ノ倉の「神明社」も、おそらくそうやって地域の人々の心の拠り所となっていたのでしょう。
神仏習合時代、天照大御神は大日如来が神になって降臨したものとされ、庶民の篤い信仰を得ていました。
ところが、江戸後期になって水戸学や国学による勤皇思想が広まると、日本は神の国であるとして、神仏分離、廃仏毀釈へと進みます。
さらに明治に入ると、国の権力者が神を利用し始めます。
天皇を現人神として国家元首に祀り上げ、皇国思想を国民に植付けて統率するようになっていきます。
その結果、大勢の国民が命を失うなどの大きな不幸と、危うく国が滅亡しかけるという危機を招いてしまったのです。
さて、「神明宮」の境内へ戻りましょう。
杉木立の中に、たくさんの石造物が集められています。
夫々が、素朴な庶民信仰の歴史です。
平和で安心な暮らしを願う、庶民の心の歴史です。
ところが今また、天皇を元首とする神の国に戻そうとする勢力が、国家権力の座に居座り、国民主権の憲法を棄て去ろうと企てています。
「神明宮」の境内で、この国の行方が心配で仕方なくなりました。
と思っていたら、こんな色っぽい姿態の観音様を見つけました。
どなたが置いたのか分かりませんが、庶民感覚あふれる観音様の姿に、少し心が和みました。
丸い柱の直線・直角的なフォルム、貫(ぬき)が柱を突き抜けず、額束(がくつか)もない簡素な造りが、「神明鳥居」の特徴だそうです。
鳥居を潜った正面に社殿、史跡看板はその手前に建っています。
天照大御神は、教育勅語に「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ・・・」とあるように、天皇の祖先神ということになっていますので、本来、天皇以外は奉幣することのできない神様でした。
中世になって武家が政治を行うようになり、朝廷の力が衰えてくると、天照大御神を祀る伊勢神宮も衰微していきます。
そこで、全国各地に派遣されて伊勢神宮のお札を売ったり、祈祷やお祓いをする「御師」という人たちが活躍します。
これによって庶民のお伊勢参りが盛んになり、全国各地に天照大御神を祀る神社が建立され、皇室だけでなく日本全体の鎮守の神様となっていきました。
慶長年間に創建されたとされる三ノ倉の「神明社」も、おそらくそうやって地域の人々の心の拠り所となっていたのでしょう。
神仏習合時代、天照大御神は大日如来が神になって降臨したものとされ、庶民の篤い信仰を得ていました。
ところが、江戸後期になって水戸学や国学による勤皇思想が広まると、日本は神の国であるとして、神仏分離、廃仏毀釈へと進みます。
さらに明治に入ると、国の権力者が神を利用し始めます。
天皇を現人神として国家元首に祀り上げ、皇国思想を国民に植付けて統率するようになっていきます。
その結果、大勢の国民が命を失うなどの大きな不幸と、危うく国が滅亡しかけるという危機を招いてしまったのです。
さて、「神明宮」の境内へ戻りましょう。
杉木立の中に、たくさんの石造物が集められています。
夫々が、素朴な庶民信仰の歴史です。
平和で安心な暮らしを願う、庶民の心の歴史です。
ところが今また、天皇を元首とする神の国に戻そうとする勢力が、国家権力の座に居座り、国民主権の憲法を棄て去ろうと企てています。
「神明宮」の境内で、この国の行方が心配で仕方なくなりました。
と思っていたら、こんな色っぽい姿態の観音様を見つけました。
どなたが置いたのか分かりませんが、庶民感覚あふれる観音様の姿に、少し心が和みました。
【三ノ倉の神明社】