前回に続き、番外編です。
「権田栗毛」の伝説に登場する「岩窟観音堂」の縁起を記した看板に、「小栗上野介の邸宅跡はこの山の上にあります。」と書かれていたので、行ってみることにしました。
「満寿池」の近くに、上り口があります。
熊が出るらしいです。
けっこうな急坂をハーハー言いながら400mほど上ると、下界がよく見渡せるところに出ます。
実際に来て見ると、小栗上野介が謀反のための要塞を造っていると新政府が難癖をつけたのも、無理からぬように思えてきます。
見ようによっては、さながら中世の山城のようです。
「倉田村郷土誌」も、こう表現しています。
そこから少し行くと、「小栗上野介の屋敷跡は、この下の平地です。」という看板と、石碑が建っていました。
「至誠奉公」の題字は、旧彦根藩主井伊家の第16代当主・井伊直愛(なおよし)氏の筆です。
下の平地に、「観音山小栗邸跡」の説明板が建っています。
ここに、棟上げの終わった小栗邸が建っていたのですね。
邸宅を支えたはずの礎石が、寂しそうに草に埋もれています。
用水の清冽な水の音も、無念のすすり泣きに聞こえます。
「完成を見なかった小栗の邸は、現在前橋市総社町の都丸家の住宅となって現存している。」と、説明板に書いてあります。
3年ほど前、とあるご縁で、その都丸家住宅を見せて頂くことができました。(写真の転載はご遠慮ください。)
都丸家に移築された経緯は、群馬県文化財研究会編「上州の重要民家をたずねる 東毛編」に書かれています。
「下の間」の長押に、小栗上野介の肖像写真が掛かっています。
「至誠奉公」碑の拓本も下がっていますね。
書院造りの「上段の間」は、華やかさはありませんが、武家屋敷らしい落ち着いた造りです。
いつの日か、権田観音山の邸宅跡に再移築されて、多くの人の目に触れる時が来ることでしょう。
「権田栗毛」の伝説に登場する「岩窟観音堂」の縁起を記した看板に、「小栗上野介の邸宅跡はこの山の上にあります。」と書かれていたので、行ってみることにしました。
「満寿池」の近くに、上り口があります。
熊が出るらしいです。
けっこうな急坂をハーハー言いながら400mほど上ると、下界がよく見渡せるところに出ます。
実際に来て見ると、小栗上野介が謀反のための要塞を造っていると新政府が難癖をつけたのも、無理からぬように思えてきます。
見ようによっては、さながら中世の山城のようです。
「倉田村郷土誌」も、こう表現しています。
「 | 小栗氏城趾ハ権田村字観世音山上ニ在、前ハ懸崖絶壁、後ハ榛名山麓ナル一帯ノ地ニ連リ、左右ハ夏ナホ寒キ深谷ヲ廻ラシ、天然要害ノ地トイフベキナリ」 |
そこから少し行くと、「小栗上野介の屋敷跡は、この下の平地です。」という看板と、石碑が建っていました。
「至誠奉公」の題字は、旧彦根藩主井伊家の第16代当主・井伊直愛(なおよし)氏の筆です。
慶応戊辰(一八六八年)三月一日、小栗上野介忠順は江戸より移り住み、この丘上に居邸を新築し、村の若き人々の育成を計画、眼下の山峡から太政大臣を出してみせるといった。 それは井伊大老の抜擢により、僅か三十四才で、万延元年第一回遣米使節全権の一人となり米国に赴き、近代文化に接し、国会を視察して、将來の新日本建設は封建の垣を超えた若き人々の力に待つことが多い、と観じたからである。 然し、事志と違い滞村六十六日で、雄圖空しく逝いたけれども、この地の若人、否、日本の若人によせた公の期待は大きく、遙かなる浅間かくしの峰に、烏川のせゝらぎに、今猶その声は、私たちに語りかけている。 本日殉難百周忌を迎え、感新たなるものあり、邸跡に碑を建て公追慕のしるしとする。 |
下の平地に、「観音山小栗邸跡」の説明板が建っています。
ここに、棟上げの終わった小栗邸が建っていたのですね。
邸宅を支えたはずの礎石が、寂しそうに草に埋もれています。
用水の清冽な水の音も、無念のすすり泣きに聞こえます。
「完成を見なかった小栗の邸は、現在前橋市総社町の都丸家の住宅となって現存している。」と、説明板に書いてあります。
3年ほど前、とあるご縁で、その都丸家住宅を見せて頂くことができました。(写真の転載はご遠慮ください。)
都丸家に移築された経緯は、群馬県文化財研究会編「上州の重要民家をたずねる 東毛編」に書かれています。
「 | 伝承によれば、(慶応四年/1868)閏四月十七日家財道具・米穀・材木など一切を取り調べ、高崎の商人及び村民にも払い下げた。 |
上棟後間もない未完成の上野介の住まいは、現在の中室田町の「はる」という女性の仲立ちで、持木癸巳二氏が買い入れて自らの住まいとした。 持木氏は、総社町で熊野屋という屋号で、荒物屋を手広く商っていた。 |
|
その後明治四十三年(1910)になって、都丸家の先祖が当遺構を持木家から六〇〇円で購入し、当地に移築したものと伝えている。」 |
【復元平面図】
「下の間」の長押に、小栗上野介の肖像写真が掛かっています。
「至誠奉公」碑の拓本も下がっていますね。
書院造りの「上段の間」は、華やかさはありませんが、武家屋敷らしい落ち着いた造りです。
いつの日か、権田観音山の邸宅跡に再移築されて、多くの人の目に触れる時が来ることでしょう。
【小栗上野介邸宅跡】