「藤鶴姫の墓」へ行く途中、道路脇に大きな史跡看板が建っているのが一瞬目に入りました。
気になったので、帰りがけに寄ってみました。
史跡看板には、「(伝)権田栗毛終焉の地」と書いてあります。
高崎市の指定史跡になっているんですね。
看板に書かれているのはあらすじだけですが、詳しく紙芝居にして下さってる方がいましたので、まずはその動画をご覧ください。
作者の福島茂徳さんは、大正十二年(1923)熊谷市妻沼町の生まれ。
出征先の満州で終戦を迎え、シベリア抑留後に帰国、教職に就きます。
70歳を過ぎてから、地元熊谷の歴史を絵本やビデオにするなど、熊谷学講師として郷土史の普及活動を行っています。
ご覧頂いた動画も、絵の作成、撮影、ナレーション、すべてご自身一人でなさっています。
これらの活動は、平成三十年(2018)96歳で亡くなるまで続けられました。
吾もまた、斯くありたし。 合掌
史跡看板の隣に建っている石碑には「熊谷治良直實乘馬舊蹟」(熊谷次郎直実乗馬旧跡)、「馬頭観世音 從是(これより)入口」と刻まれています。
坂を上って行くと、川の中に大きな石があって注連縄が張られています。
その石の上に、「権田栗毛枕石」と刻まれた碑が建っています。
ということは、この川の水が「さかさ水」なんでしょうか。
ふつうに川上から川下に流れてますけど・・・。
明治四十三年(1910)発行「倉田村鄕土誌」に載っている権田栗毛の話には、「枕石」も「さかさ水」も出てきません。
これが、大正十四年(1925)発行の「群馬縣群馬郡誌」になると、「さかさ水」だけが出てきます。
昭和五十年(1975)発行の「倉渕村誌」も、本文は「群馬郡誌」を引用しているのですが、なんと、その挿入写真のキャプションに初めて「枕石」が出てくるのです。
でも、これ、川の中にあった石とは違いますよね?
権田栗毛が最後に飲んだ水と「枕石」がセットで出てくるのは、昭和五十一年(1976)発行の「倉渕村の民俗」です。
こうなると、「枕石」は川の中にないと具合が悪いですもんね。
ところが、平成二年(1990)発行の「倉渕村のあゆみ」で、川の中の「枕石」は再び怪しくなります。
として、写真のキャプションも、祠の前の石をはっきり「権田栗毛の枕石」と言い切っています。
その祠と「枕石」は、川の左の小高い場所にあるようなので、行ってみましょう。
意外にモダンな参道で。
参道を進んだ左側に、お堂が建っています。
観音堂だと思ったのですが、大師堂かも知れません。
参道の正面に、石仏や石祠が並び、手前に写真にあった「枕石」が祀られています。
やっぱり、こっちが「枕石」っぽいですよね。
最も新しい「新編倉渕村誌 第三巻民俗編」(平成十九年/2007発行)の記述は、こうなっています。
祠の中から可愛い馬が顔を覗かせて、「細かいことはいいんじゃない?」と笑っていました。
さて、その権田栗毛は生まれ故郷の小池市助の元へ帰って来たのですが、すでにその家はなく、巻いてきた母衣(ほろ)が解けて落ちます。
村人はその母衣をその地に埋めて、「お母衣明神」として祀ったと言います。
行ってみました。
権田の信号から北軽方面へ200mほど行ったら、右へ入ります。
そこから500mほど行った所に、看板が建っています。
ただ、「お母衣明神」ではなく、「権田栗毛生誕の地」となっていますが。
石段を上ると、杉の木の根元に石碑や石祠が祀ってあります。
この石祠が「お母衣明神」だと思うのですが・・・、
うーん、天保六年かぁ・・・。
母衣の中から転げ落ちたという観音像は、岩窟(いわや)観音堂に祀られているそうなので、そこへも行ってみました。
マス料理と釣り堀で有名な、「満寿池」のすぐ近くです。
岩壁を抉って建てたような、「岩窟観音堂」です。
平成十五年(2003)に改修された、きれいなお堂です。
扉に、「岩窟観世音」の絵姿。
扉の左に、「岩窟観音堂の縁起」が掲示されています。
あれ?
権田栗毛が飲んだ水は、ここの「観音清水」ってなってますけど?
伝説というのはこうやって膨らんでいくんだな、ということを教えてくれる「権田栗毛」の話でした。
長々と書いてまいりましたが、最後に、身も蓋もない話を。
「権田栗毛」じゃなくて「権太栗毛」で、陸奥国の馬だって倉田村の郷土史で言ってるんですね。
あ~ぁ。
気になったので、帰りがけに寄ってみました。
史跡看板には、「(伝)権田栗毛終焉の地」と書いてあります。
高崎市の指定史跡になっているんですね。
看板に書かれているのはあらすじだけですが、詳しく紙芝居にして下さってる方がいましたので、まずはその動画をご覧ください。
作者の福島茂徳さんは、大正十二年(1923)熊谷市妻沼町の生まれ。
出征先の満州で終戦を迎え、シベリア抑留後に帰国、教職に就きます。
70歳を過ぎてから、地元熊谷の歴史を絵本やビデオにするなど、熊谷学講師として郷土史の普及活動を行っています。
ご覧頂いた動画も、絵の作成、撮影、ナレーション、すべてご自身一人でなさっています。
これらの活動は、平成三十年(2018)96歳で亡くなるまで続けられました。
吾もまた、斯くありたし。 合掌
史跡看板の隣に建っている石碑には「熊谷治良直實乘馬舊蹟」(熊谷次郎直実乗馬旧跡)、「馬頭観世音 從是(これより)入口」と刻まれています。
坂を上って行くと、川の中に大きな石があって注連縄が張られています。
その石の上に、「権田栗毛枕石」と刻まれた碑が建っています。
ということは、この川の水が「さかさ水」なんでしょうか。
ふつうに川上から川下に流れてますけど・・・。
明治四十三年(1910)発行「倉田村鄕土誌」に載っている権田栗毛の話には、「枕石」も「さかさ水」も出てきません。
これが、大正十四年(1925)発行の「群馬縣群馬郡誌」になると、「さかさ水」だけが出てきます。
「 | 栗毛更に舊主の許に還らんと志せるにや、三の倉村字道場谷戸と云へる所まで辿りつき、傷に耐え兼ね逆水(さかみづ:小川の水普通の方向に逆流せる部分)を飲みて遂に斃(たお)る。」 |
昭和五十年(1975)発行の「倉渕村誌」も、本文は「群馬郡誌」を引用しているのですが、なんと、その挿入写真のキャプションに初めて「枕石」が出てくるのです。
でも、これ、川の中にあった石とは違いますよね?
権田栗毛が最後に飲んだ水と「枕石」がセットで出てくるのは、昭和五十一年(1976)発行の「倉渕村の民俗」です。
「 | 故郷の権田に帰って来たが、すでに生家はなく、土城谷戸までひき通し(還し?)て、枕石のところの清水を呑んでいた。 |
村の小供がみつけた。見ると、腹に巻いた布が血によごれていた。 | |
子供が『はらわたが出ている。』といったところが、馬はバッタリ倒れた。 | |
その枕になった石を枕石という。」 |
ところが、平成二年(1990)発行の「倉渕村のあゆみ」で、川の中の「枕石」は再び怪しくなります。
「 | 栗毛は、もとの主人に会いたい一心で弱った足を進めたが三ノ倉の土城谷戸という所で力尽き息をひきとった。 |
村人は、栗毛をこの場所に葬り馬頭観音堂を建てて祭った。 | |
現在観音堂は焼けて残っていないが、同所に小さな石のほこらと栗毛が頭を横たえたという枕石が残っている。」 |
その祠と「枕石」は、川の左の小高い場所にあるようなので、行ってみましょう。
意外にモダンな参道で。
参道を進んだ左側に、お堂が建っています。
観音堂だと思ったのですが、大師堂かも知れません。
参道の正面に、石仏や石祠が並び、手前に写真にあった「枕石」が祀られています。
やっぱり、こっちが「枕石」っぽいですよね。
最も新しい「新編倉渕村誌 第三巻民俗編」(平成十九年/2007発行)の記述は、こうなっています。
「 | 村の人々は栗毛のなきがらを手あつく葬って、そこに馬頭観音堂を建て馬の霊の冥福を祈りました。 |
この堂は焼失してなくなり、今では祠と栗毛が枕にして倒れたという「枕石」があります。」 |
祠の中から可愛い馬が顔を覗かせて、「細かいことはいいんじゃない?」と笑っていました。
さて、その権田栗毛は生まれ故郷の小池市助の元へ帰って来たのですが、すでにその家はなく、巻いてきた母衣(ほろ)が解けて落ちます。
村人はその母衣をその地に埋めて、「お母衣明神」として祀ったと言います。
行ってみました。
権田の信号から北軽方面へ200mほど行ったら、右へ入ります。
そこから500mほど行った所に、看板が建っています。
ただ、「お母衣明神」ではなく、「権田栗毛生誕の地」となっていますが。
石段を上ると、杉の木の根元に石碑や石祠が祀ってあります。
この石祠が「お母衣明神」だと思うのですが・・・、
うーん、天保六年かぁ・・・。
母衣の中から転げ落ちたという観音像は、岩窟(いわや)観音堂に祀られているそうなので、そこへも行ってみました。
マス料理と釣り堀で有名な、「満寿池」のすぐ近くです。
岩壁を抉って建てたような、「岩窟観音堂」です。
平成十五年(2003)に改修された、きれいなお堂です。
扉に、「岩窟観世音」の絵姿。
扉の左に、「岩窟観音堂の縁起」が掲示されています。
あれ?
権田栗毛が飲んだ水は、ここの「観音清水」ってなってますけど?
伝説というのはこうやって膨らんでいくんだな、ということを教えてくれる「権田栗毛」の話でした。
長々と書いてまいりましたが、最後に、身も蓋もない話を。
「 | 按ズルニ平家物語ニ熊谷ハ権田栗毛ト云ふ名馬ニゾ乘リタリケル云々、源平盛衰記ニ権田栗毛ト名ヅク云々トアル名馬ハ此ノ地ニ出デシニハアラズ、 熊谷ガ舎人ニ権太ト云フモノアリ、能ク馬ヲ飼フ。 |
直實曰ク馬ハ武士ノ寶ナリ、ヨキ馬ヲ求メテ得サセヨト上品ノ絹二百匹ヲ権太ニ與フ。 | |
権太之ヲモテ陸奥ニ下リ一ノ戸ヨリ逸物ヲ得テ來リ、権太栗毛ト名ヅク云々トアリ」 |
(倉田村鄕土誌)
「権田栗毛」じゃなくて「権太栗毛」で、陸奥国の馬だって倉田村の郷土史で言ってるんですね。
あ~ぁ。
【権田栗毛終焉の地】
【お母衣明神】
【岩窟観音堂】