「鼻高天満宮」から「鼻高展望花の丘」方面へ440mほど坂を上り、細い道を左へ入って100mほど行くと、「福泉寺」があります。
「鼻高展望花の丘」へは何度も行きましたが、ここにお寺があるということには全く気付きませんでした。
ここが、かつての「鼻高小学校」であったとは、なおさらです。
入口を入った石段の脇に、「鼻高小学校跡」の朽ちかけた木札が転がっています。
史跡看板が建つまでは、この木札が入口に建っていたのでしょう。
境内に入ってまず驚くのは、これです。
草を刈っていたご住職がこちらへいらっしゃったので、「これは何ですか?」とお聞きすると、「むえんさまです。」とのこと。
「地蔵講というのがあって、路傍に捨てられているお地蔵さまや墓石をここに持ってきたんです。」と。
あぁ、「無縁さま」なんですね。
ここにお寺があることに気付かなかったのは、大きな寺院建物が無かったこともあります。
この平屋建ての建物が本堂でした。
写真を撮っていると、奥様が庫裡から出てきて、「これ、どうぞ。」と冷えたサイダーを下さいました。
冷たくて、美味しかったです。
ごちそうさまでした。
「鼻高小学校」が廃止になった後、「福泉寺」はしばらく無住で、安中の「蓮華寺」が兼務していたそうです。
大正年間に放火に遭って本堂を焼失し、昭和二十七年(1952)に一度解散します。
そんな「福泉寺」を再興したのは、千葉県香取郡多古町の「実相寺」から迎えた橋本幸順師(現住職のご父君)でした。
昭和五十七年(1982)に住職となった幸順師は、本堂を再建しますが、「寄付は一切貰うな。」と言って、すべて自費で建立したということです。(奥様談)
「高崎の散歩道第十一集」に、幸順住職と「無縁さま」のことが書かれています。
それで、このように一基一基大切に建てられて供養されていたのですね。
感動です。
この地域では、今も二十二夜講が続いているそうです。
二十二夜様へのお賽銭は、すべて町内の方に渡すそうです。
幸順住職が建立した「上杉武田両軍戦没者各霊菩提」という供養塔があります。
供養塔の説明板にもありますが、「福泉寺」周辺は「鼻高の砦」だったようです。
内山信次氏著「徐徐漂(ぶらり)たかさき」には、こんな話が載っています。
境内には、サクランボやミカンのなる木がありますが、鳥がみんな食べに来て、残りを人間が頂くとのことです。
奥様は、「こういう静かな所に住んでいると、腹が立つことがないんですよ。」と仰います。
「カラスも可愛いんですよね。」とも。
お庭には四季折々いろいろな花が咲きますが、今はちょうど端境期だとか。
お花が咲くころに、またお邪魔したいと思った「福泉寺」でした。
「鼻高展望花の丘」へは何度も行きましたが、ここにお寺があるということには全く気付きませんでした。
ここが、かつての「鼻高小学校」であったとは、なおさらです。
入口を入った石段の脇に、「鼻高小学校跡」の朽ちかけた木札が転がっています。
史跡看板が建つまでは、この木札が入口に建っていたのでしょう。
境内に入ってまず驚くのは、これです。
草を刈っていたご住職がこちらへいらっしゃったので、「これは何ですか?」とお聞きすると、「むえんさまです。」とのこと。
「地蔵講というのがあって、路傍に捨てられているお地蔵さまや墓石をここに持ってきたんです。」と。
あぁ、「無縁さま」なんですね。
ここにお寺があることに気付かなかったのは、大きな寺院建物が無かったこともあります。
この平屋建ての建物が本堂でした。
写真を撮っていると、奥様が庫裡から出てきて、「これ、どうぞ。」と冷えたサイダーを下さいました。
冷たくて、美味しかったです。
ごちそうさまでした。
「鼻高小学校」が廃止になった後、「福泉寺」はしばらく無住で、安中の「蓮華寺」が兼務していたそうです。
大正年間に放火に遭って本堂を焼失し、昭和二十七年(1952)に一度解散します。
そんな「福泉寺」を再興したのは、千葉県香取郡多古町の「実相寺」から迎えた橋本幸順師(現住職のご父君)でした。
昭和五十七年(1982)に住職となった幸順師は、本堂を再建しますが、「寄付は一切貰うな。」と言って、すべて自費で建立したということです。(奥様談)
「高崎の散歩道第十一集」に、幸順住職と「無縁さま」のことが書かれています。
「 | そういえば各寺の墓地の整理はまたすさまじい。 無縁の石塔は墓地のすみにコンクリートで固められ、またある寺ではゴミ捨て場にという所もあるという。 |
福泉寺の住職は、こうした無縁の墓を粗末にするのは、人間を生き埋めにするに等しい。 | |
ただの石ではない。その時の念がこもっているのだ。 | |
こうして無縁の石塔を集めれば、自然と有縁の霊が集まると住職はさわやかに話してくれた。」 |
感動です。
この地域では、今も二十二夜講が続いているそうです。
二十二夜様へのお賽銭は、すべて町内の方に渡すそうです。
幸順住職が建立した「上杉武田両軍戦没者各霊菩提」という供養塔があります。
供養塔の説明板にもありますが、「福泉寺」周辺は「鼻高の砦」だったようです。
内山信次氏著「徐徐漂(ぶらり)たかさき」には、こんな話が載っています。
「 | 中鼻高の福泉寺の東は内出と呼ばれています。 内出とは中心城から派出された出城のことです。 |
ここは永禄九年(1566)九月、武田信玄が箕輪城攻撃の最後の野戦、若田ヶ原の合戦のとき、甲州軍の本陣を置いた所といいます。 また福泉寺の前の平は乱闘場といって、上杉武田両軍の合戦のあった所だといわれています。 |
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昭和の初め、ここを開墾していて四、五体の戦国時代の人骨が掘り出されました。 その後も牛蒡を作っていて人骨が出たり、梨畑を掘って討ち死にしたらしい人骨が出たりしました。 骨を掘りだした人は良くない事が続くなどといわれ、最近はさまよい歩く戦国の亡霊を見た、などとささやかれるようになりました。(略) |
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再建なった福泉寺の周囲を戦国の亡霊がさまよう噂が広まって、テレビにも放映されました。 | |
橋本師は、乱闘場に四百年も冥ることの出来ない戦国の武士の霊を鎮めるため、五輪の供養塔を建てました。昭和五十六年五月のことです。 | |
以来亡魂の噂は聞かれなくなったといいます。」 |
境内には、サクランボやミカンのなる木がありますが、鳥がみんな食べに来て、残りを人間が頂くとのことです。
奥様は、「こういう静かな所に住んでいると、腹が立つことがないんですよ。」と仰います。
「カラスも可愛いんですよね。」とも。
お庭には四季折々いろいろな花が咲きますが、今はちょうど端境期だとか。
お花が咲くころに、またお邪魔したいと思った「福泉寺」でした。
【福泉寺】